6. 鬼峠ミーティング
●16:05 双民館到着
ここからは双民館に会場を移し,鬼峠ミーティングが始まる。
今日は役場の方が直々に受付をしてくださり恐縮した。
●17:15 鬼峠ミーティング
それぞれ宿舎に入って着替えたり,郷土資料室を見学したりして1時間ほど過ごしたあと,おおむね予定通りの17時過ぎから鬼峠ミーティングが始まった。
最初に山本さんから,双民館について,鬼峠フォーラムの開催経緯ついて,そしてニニウ地区についての説明があった。
本日のメインゲストは,ニニウ生まれの会田静雄さん。あらかじめ黒板にニニウ関係の年表を書いておき,それに沿って山本さんが会田さんに質問していくという形で進められた。
ニニウへの入地
山本:会田さん,お生まれは何年ですか。
会田:昭和10年の11月です。73歳です。
山本:お元気ですね。山菜市の時にもいつも山菜を採ってきていたただいたりしているのですが。
山本:ニニウには何歳の時までいらっしゃったのですか。
会田:ずっと住んでいたのは,38年の秋までですね。
山本:昭和38年の秋。ということは,このあたりまでですね。会田さんが最後いらしたときは,いまの林道が開通したあとですね。
会田:そうですね。
山本:お父さんは何年に生まれたのですか。
会田:父ですか,明治43年です。
山本:ニニウにいらしたのは何歳ぐらいの時ですか。
会田:話では6歳頃ということです。
山本:ということは大正のはじめくらいに来られたということですね。お父さんがお亡くなりになられたのは何年ですか。
会田:(昭和)62年です。
山本:何歳でしたか。
会田:75歳でした。父は夕張の登川村で生まれたということです。
山本:じゃあ,お爺ちゃんと一緒に来られたということですね。
会田:そうですね。
山本:なんでニニウにいらしたとか聞いたことはありますか。
会田:それはわかりません(笑)。僕が生まれる年に爺さんが亡くなったんです。ですから全然話を聞いてないんです。親もわからなかったようです。
山本:会田さんが物心つかれた頃には何世帯ぐらいが住んでいたのですか。
会田:24〜25戸ありました。
山本:1軒5人としても100人以上は。
会田:うちは8人いました。
山本:8人家族というと。
会田:婆ちゃん,親二人と,あと自分ら兄弟5人。
山本:今日見させていただいたあの家で8人で。
会田:ええ。
それによると,ニニウは夕張炭鉱に近い地帯であり,石炭が埋蔵されていることが事実なので近い将来に必ず炭鉱が拓け鉄道が開通し,「鉄道がつけばニニウ駅が出来る。そうなると歌志内のようになる。ニニウはせまいが,せまい土地だけに今確保しておいた土地に価が出てくる。仕事もあるし農業をしても占冠では季候が一番よいから野菜も出来るのでこれも売れる」というのが,ニニウに入地した人々の7割方の考えであった。会田さんのお爺さんもまた,夕張の採炭夫であり,その裏側のニニウに炭山の出来る日を予想して金山経由で入地したとのことである(「占冠村史」pp.878-879)。 |
逓送の仕事
山本:小学校のあったあたりが中心だったのですか。
会田:そうですね。
山本:駅逓とか。
会田:駅逓もありました。三叉路になったところに。
山本:碑が建っていますね。駅逓というのは,今でいう旅館であり,郵便物が届く窓口でもあり。で,お父さんが,その逓送の仕事をしていらしたということですが,逓送というのは,どんな仕事ですか。
会田:当時は,リュックとカバンを持って背負って歩いていました。朝まず,駅逓にポストがあったので,それを開けて,また自分の家まで戻って,食事をして。8時頃出発して歩いて郵便局まで来ていました。
山本:郵便局は今の中央の郵便局ですね。場所は同じですか。
会田:同じです。
山本:道の駅の斜め向かいに郵便局があるのですけど,そこまで。小学校の手前にちょっとした三角地帯があるのですけど,そこにいま史跡の碑が建っていますけど,そこに何ていう方がやっていたんでしたっけ。
会田:三船さん。
山本:三船さんという方がやっていた,まあ小さい集落なんで,人も泊めるし,郵便局の窓口もするという。駅逓,逓という字はもうほとんど使わないですね。逓信省と昔言っていた(笑),郵政省の。逓という漢字書けますか。
駅逓とは昭和22年まで存在した北海道独特の制度で,ピークの大正10年には道内に270箇所の駅逓が存在した。古くは高官の人馬継立の用意を主としたが,開拓前線が奥地に進むに伴い,宿泊・運送などに重要な役割を果たした。 占冠村内には上トマム,下トマム,字占冠,ニニウの4箇所の駅逓があった。
|
会田:それで,駅逓で判をもらうのです。駅逓で判をもらわないと行って開けてきたという証明にならないものですから,それを局に渡したのです。そしてまた帰り持ってきて。
山本:逓送というのは「逓送さん」という感じで呼ばれていたのですか。
会田:ええ,そういうふうに呼ばれてました。
山本:まあ,今でいう配達と集荷と全部兼ねているようなことですね。逓送やっている方はお父さんお一人ですか。
会田:ええ,そうです。
山本:ニニウ地区の郵便物は全部お父さんが。
会田:はい。
山本:朝一で今日のあの場所から小学校の場所まで,走って行って。そのあと,自分ちでご飯を食べて。で,鬼峠をずうっと。それは歩いて,走って。
会田:歩くのはどっちかというと速いほうでしたね。僕らが一緒に行くことがあったのですけど,ついて歩くのが忙しいくらいでした。
山本:それで,リュックを背負って,カバンを掛けて,あの逓信のマークがついたようなやつを。
会田:そうです。
山本:格好はどんな格好ですか。
会田:ネクタイをもらっていましたが,暑いものですから,局の手前まではしないで(笑)。
山本:なるほど。峠をずっと越えて,中央まで来たらちょっとこう(笑)。でもちゃんとそういう郵便の格好をしていたのですね。
会田:ええ。
山本:足もとはこう,なんというのでしょう。
会田:ゲートルかなんか巻いていましたね。服はあたるのです。
山本:ゲートルって,もうわからないですね。ゲートルわかる人。
参加者:脚絆?
会田:下手な人が巻いたら,からまっちゃうんですよ。
山本:靴はどんな。
会田:地下足袋が多かったと思います。夏は。
山本:逓送は馬は使わなかったのですか。
会田:雪降ったときには歩くのが大変ですから,裸馬で。
山本:鞍をつけずにそのまま。でも,普段は馬を使わなかったのですか。
会田:使わなかったです。
山本:何となく,僕らだったら楽なほうにいっちゃいそうですけど。
会田:乗っていると寒いのですよ。冬は。そしてまた,途中配達しながら帰るものですから,自分の家と峠の間に10軒ぐらいあったのです。その間,ずっと配達して帰るものですから,馬はめんどくさいということで。雪の深いときは馬で行きましたけど。
山本:会田さんの家から鬼峠に入るまで,だいぶん奥になりますが,あの間に家が。
会田:山道まで約4キロ,その間に10軒です。
山本:会田さんは一緒によく行かれたのですか。
会田:たまにですけど。
山本:それは,なにか「一緒に行くか」みたいな話になるのですか。
会田:床屋とか。子供の頃は刈ってくれましたが,ある程度大きくなると親でもできないものですから,そういうときには一緒に行きました。
山本:それは何歳ぐらいまでですか。
会田:14,15くらいですね。
山本:会田さんがずいぶん大人になったあとも,お父さんと一緒に歩くと,足が速いなと。
会田:速いという感じはしました。
山本:ああそうですか。それはどのくらいの頻度で行くのですか。
会田:最初は毎日だったそうです。その日に持ってきたときにはその日全部配って,また次の日に行くという。それが何年続いたのかわからないのですが。
山本:そのあとは。
会田:それから何年か後には,1日おきになりました。
また,逓送人は部落の便利屋でもあり,タバコ,マッチ,酒も頼まれた。郵便物は普通4貫(15kg)くらいで,ときには5貫に及び,雨降りの峠越えは誰もが考える以上の重労働で,熊の姿を見ることもあったという(「占冠村史」p.590)。 |
山本:だいたい会田さんの家を出てから中央の郵便局まで時間はどのくらいですか。
会田:2時間半くらい。
郵便局と林食堂。正面が鬼峠方面。 「占冠村商工会45周年記念誌・占冠村便利電話帳」より |
山本:夏のほうが速いですか。
会田:夏のほうが速いです。
山本:2時間半歩くというと,朝出るのは何時くらいですか。
会田:ご飯食べたらすぐに出てました。8時から8時半くらい。
山本:そうすると,午前中10時くらいに着いて。
会田:用事を足したら昼になります。
山本:お弁当を持って行ったのですか。
会田:持って行くときもありましたし,持って行かないこともありました。
山本:当時中央で食べるところはどこがありました。
会田:食堂が1,2軒あったんですよ。
山本:なんていう食堂ですか。
会田:林食堂ってありました。
山本:あの林旅館とはべつですか。
会田:別です。
山本:そういうところでお昼を食べて,また3時間かけて。
会田:そうですね。
農作のこと
山本:大変ですね。毎日というか,一日おきの。そのお父様は,それをやりながら農業もやっているという。
会田:父は手伝っても半日くらいですか。
山本:ご自宅のまわりに田んぼとか畑があったのですか。
会田:まわりもあったし,ちょっと通い作もありました。
山本:通い作は学校のほうですか。
会田:入り口のほう,学童農園の周辺もちょっと作っていたのです。
山本:お米のほかには何を作られていたのですか。
会田:イナキビと,ソバも作っていたし,あとはトウキビですか,麦。この辺が食料でしたね。米は3反ぐらい作っていましたが,それだけでは足りなくて,3,4俵しかとれなかったものですから,家族が多かったので全然足りなかったです。それですから,イナキビですとか,ソバですとか,そういうものは食べていました。
山本:米はやはり成りがそんなに良くないということですか。
会田:いまはハウスで作って植えるのですが,当時は直播きですから。
山本:ニニウで田んぼというのはよく聞くのですが,その当時は占冠の中央のほうでも田んぼはあったのですか。
会田:わからないですね。あったのではないかと思うのですが。
会田(信)家はニニウにおける水稲作付けの元祖で昭和7年に稲作を始めている(「占冠村史」p.712)。「占冠村ニニウの教育計画に関する研究」には昭和32年時点の各戸の作付構成,家畜所有状況が記載されている。それによると,会田家の作付け構成は,水稲2.6反(1反≒10アール),燕麦5.0反,とうもろこし2.0反,小豆2.0反,大豆3.0反,いんげん豆1.0反,馬鈴薯1.0反,かぼちゃ1.0反,その他0.9反,デントコン0.1反,計18.6反であった。また家畜は馬2頭,豚1頭,鶏10羽,綿羊2頭,山羊1頭がいた(p15,18)。 昭和37年時点での水稲作付面積は占冠全体で74ヘクタールあり,うち双珠別が220反,中央地区が211反,占冠地区が253反,ニニウ地区が56反だった(「しむかっぷの水害」p136,173,177,183,192)。当時トマムは数字の上では水稲作付け面積が0だったが,標高600メートル超の上トマムでも稲作は試みられていた。 占冠での水稲作付けは昭和43年度の296ヘクタールがピークで,その後の減反政策により,現在の作付けは統計上皆無となっている。 |
出かけること
山本:富良野に行ったりとかそういうことはあったのですか。
会田:下金山にうちの母の実家があったものですから,そこに行くことはありました。
山本:下金山で行くというと,どうやって行くのですか(笑)。
会田:中央まで歩いて,中央からバスに乗って,あと金山から下金山まで汽車に乗っていました。
山本:じゃあもう,昼前に中央に着いても,下金山まで行って帰ってくるのはちょっと難しいかなと。
会田:日帰りはあまりしたことがないです。何泊か遊んで帰ってきました(笑)。
山本:ニニウから下金山まで行こうと思ったら日帰りでは行けない(笑)。金山にも旅館があったと。
会田:ありましたね。
ニニウから下金山まで,現在では車で1時間もかからない。 グラフは昭和33年,新入小学校,中学校の全児童生徒に対して行ったアンケート調査の一部である。小樽,札幌が多いのは,3年に1度中学校の全生徒が参加した修学旅行の行き先となっていたからだろう(「占冠村ニニウの教育計画に関する研究」p28)。 |
ホタルのこと
山本:前にお話しを伺ったときに,さっきもトマムからニニウにホタルを見に行ったという話をしましたが,昔はホタルはたくさん。
会田:もう,おりました。もう,その辺どこでもピカピカと光っていました。
山本:なんかこう,うわっと出るような。
会田:そんなうわっとは出ないですが,どこでも出ましたね。
山本:会田さんの家のまわりでも。
会田:ええ。子供の頃は良く捕まえて,瓶に入れて持って歩いたりなんかしました。
山本:当時は,ニニウ自体が,電気が入ったのが昭和41年ですから,私が生まれた年ですが,昭和41年まで電気がなかったわけですから,当然暗いからホタルも住みやすいのでしょうね。
学校のこと
山本:学校の話も前に少しお伺いしたことがあるのですけど,いまある小中学校の場所が昔から学校の場所ですか。
会田:そうですね。最初はね,玄関から左側がちょっとあったのですよ。で,中学校ができてから右側に足したのですね。そしてさらにあとに体育館ができたのです。
山本:じゃあ,だんだん大きくなっていって。そんな感じなんですね。昔は,今日も見た粉の。
会田:ああ,粉炭(ふんたん)ストーブ。
山本:昔は暖房というとどんな感じかというと。
会田:家庭ではだいたいどこでも粉炭か薪(まき)か。当時は薪が多かったですが,粉炭になったのはもうだいぶんあとですね。
山本:学校も薪だったのですか。
会田:薪から粉炭になったというのは,自分たちの頃は薪だったのですけど,自分たちが出てから,薪は切る人がいなくなったものですから,それで粉炭になりました。
山本:粉炭というのは運ばれてくるのですか。
会田:ええ,運んで。
山本:馬でですか。
会田:その頃はもう車で。
山本:薪ストーブは。日高高校には石炭小屋ってありますけど,もう使っていないですけれども,石炭小屋というのは当時からあったのですか。子供が粉炭運んできたり,薪運んできたりということは。
会田:最初は薪でしたから,薪は外へ積むだけです。
山本:中学校のときは子守をしながら行かれたと言っていましたけど。
会田:ええ兄弟5人いたものですから,みんなで学校に行っていました(笑)。
山本:小学校に上がる前の子も一緒に連れて行ったのですね。
|
赤岩ダム建設問題
山本:会田さんが生まれたときにはもう新しい鬼峠になっていて,昭和27年,会田さんが17歳の時ですが,赤岩にダムができるということで,計画があったのですよね。赤岩にダムができて,かなやま湖がそういうことに実際になったのですが,中央が水没するという話が当時あったんですけど,それはニニウではどういうふうに。
会田:部落の人がたが集まって,ばらばらどっかに行くのではなくて,まとまっていこうという打合せは,1回くらい集まってやったことは聞いています。そのうちにだんだん話が消えていったというか。
山本:反対運動がずいぶん出てきてという話は聞いたことがありますけど,ニニウではそういうことはあまりなかったのですか。
会田:特に反対ということはなかったですが,ただ行き場所がどこになるかといことがいちばん心配でしたね。
山本:まだ昭和27年ですから,戦争が終わって混乱の直後ぐらいですね。じゃあニニウではそんなに大騒ぎというほどでもなかったと。
会田:そこまではなってなかったですね。
山本:赤岩にダムができるということは,ニニウも水没するというような計画だったのですか。
会田:どうなんですか,こっちに出られないということになりますからね。
山本:なるほど。結構具体的な話だったのですね。
赤岩ダムについて,はじめに話題となったのは昭和27年だったが,現実の問題として意識されたのは,昭和34年の北海タイムスの新聞記事だった。ダムが出来れば,占冠はニニウとトマムを残して水没することになる。 昭和34年というとちょうど隣町の南富良野では,金山ダムの建設計画が現実のものとなり,それまでの反対運動から補償折衝へと転換した年だった。そういう話が伝わっていたところへの赤岩ダム建設計画だったことから,村は絶対建設反対を主張し,結局北海道開発局は本格的な調査を行わないまま,コスト高を理由に調査をうち切り,昭和36年12月にダム建設問題は終止符を打った。 赤岩ダムの問題は,占冠村にとってそれなりに大きな事件だったようで,いまでも古い人たちの話題に上ることがあるという。その後も鵡川にダムが建設されることはなく,鵡川は全国でも珍しい本流にダムがない河川となっている。 |
昭和37年の水害
山本:昭和37年の台風の時は。占冠にお住まいの方は知っていると思いますが,中央はもう全部水に浸かって,安田牧場のところの堤防の上で救助を待っている人の写真がよく出ていますが,あのときは相当だったのですか。
会田:ええ,かなりそっちこっち,道路が寸断されましてね,学校間際まで水が上がって,吊り橋も流されて,大半の所は湖という感じでしたね。
山本:会田さんそのときは家にいたのですか。
会田:ええ,おりました。すぐ裏が川ですよね。水上さんって,1キロちょっと奥のほうにおったのですが,家が危ないから泊めてくれといって朝方に来ました。
山本:水害の時に,鵡川,大川のほうを見に行かれました。
会田:行くどころでない。だいたい道路が埋まってしまって。神社がありましたよね。あのすぐ近くに沢があって,あのとこの橋が,落とされちゃったのです。木の橋だったのですが,それが落とされて,水が引かないと渡れなくなりました。
山本:今日言われていた,あの学童農園に入っていくところの,こっち側が全部水浸しになったというのは,あとから見たのですか。
会田:ええ。どこ見ても,水,水という感じで。
山本:何月ですか。
会田:あれは8月の2日か3日頃から降り出して,2日くらい降ったのですね。
山本:で,その水害のあとに,やたらシャケが上ってきたという話を聞いたのですが。
会田:そうですね。
山本:それは水害があるまではそんなに戻ってきていなかったのですか。
会田:あんまり聞いてなかったのですけど。その年に自分のうちでは,王子さんがおりましたから,その年は全部で48本かな,揚げましたね。処置に困ったんですよ(笑)。
山本:捕りすぎて。
会田:塩が十分でなかったものですから。
山本:ははあ。
会田:毎日,朝は焼き魚に,晩は鍋というか野菜と煮たような,もう飽きましたね(笑)。毎日ですよ。
山本:中央の人はそれを知っていたのですかね。
会田:知っているのではないでしょうかね。
山本:うらやましかったでしょうね(笑)。それはここ大川ですね,鵡川の本流のことをニニウでは大川といったのですが,大川があって,ここにパンケニニウっていう,これは何て言っていたのですか。
会田:パンケ,いやペンケ,下(しも)にあるのがパンケ。
山本:シャケが上がってきたのは
会田:家の裏まで上がってきました。
山本:48本獲れたというのは,家の裏で。
会田:いやそこばかりでなく,全体的に。
山本:それは台風があった昭和37年にも上がったのですか。
会田:大水が出たその年から上がった。
山本:3年間くらい。
会田:ええ。
山本:その後は捕れなくなったのですか。
会田:だんだん捕れなくなってきてね。
川魚の漁
山本:マスはその前からずっと捕れたのですか。
会田:マスはもうどこでも捕れました。
山本:占冠はヤマベが,ヤマベといいますが,山女(やまめ)が有名で,沢にはものすごい数の山女がいて,昔はもういくらでも捕れたという話はあるのですけどね。で,山女が海に下って,それがサクラマスになって上がってくるんで,それがだいたい8月のお盆くらいですか。サクラマスの場合サケよりは小さいのですよね。
会田:小さいです。
山本:どのくらいなのですか。
会田:こんなもんでしょうね。
山本:シャケは。
会田:このくらい。
山本:やはり魚を食べることは普段そんなになかったですか。マスとシャケの時期以外は。
会田:川魚をしょっちゅう食べていました。雨降ったといったら,網を持っていって3人くらいで,小さい頃はよくバケツ持たされたんですよ。捕った魚を18リッターの油缶ですか,一斗缶に移して,そして2人か3人でまた捕って。その運び役をやらされて,嫌だったですね。川の中で持っているのが大変で,1回流して親に怒られたことがあります(笑)。半分も入れると重たくて持っているのが大変なんです。
山本:それは何歳くらいの時ですか。
会田:小学校の終わりから中学校くらいまでは,しょっちゅう連れて行かれました。
山本:網ってどのくらいの網ですか。
会田:このくらいですね。
山本:すると,こうやって。
会田:一人はこう押さえていて,もう一人は上からぼってくる。
山本:魚はどんな。
会田:いろんなのが入るのですよ。
山本:例えば。
会田:カジカとか,カニとか。
山本:カニはどんな。
会田:店で売っているのよりこまい,真っ黒いカニ。
山本:カワガニ食べたことある人います。カワガニ双珠別にはいなかったですか。
会田:いなかったです。
山本:食料に恵まれていますね,結構。
会田:ええ,川魚とかそういうのは夏はありました。冬は,買いに行かないと。
山本:捕るのはペンケでやるのですか。
会田:ええ,パンケも何回かは行ってますけど。
山本:パンケというのは今の崖の所を過ぎてある川ですか。
会田:ええ。
山本:あれもいますね,ヤツメ。
会田:ヤツメもおりました。
山本:ヤツメ2年くらい前に見ました。パンケで。
石勝線の開通
山本:ちょっと話は変わりますけど,石勝線がね,開通,昭和56年にしているんですけど,ニニウに駅ができるっていう話は,聞いたことありますか。
会田:それはないですね。
山本:ああそうですか。昔そういう話があって,信号場がその代わりとして残されているということですが,ニニウの中では特にそういう話があったわけではないのですね。
会田:汽車は走るというのは聞きましたが,駅ができるというのは聞いてなかったですね。
石勝線は駅として開業した楓,占冠,トマムのほかに,信号場として開業した長和(オサワ信号場),新登川(東オサワ信号場),ニニウ(清風山信号場),下トマム(ホロカ信号場)も,当初は駅として計画されていた。 ただ,ニニウに駅ができるという話は,ニニウの住民にあまり浸透していなかったようである。ドラマ「鬼峠」では,ニニウ最後の農家となった伊藤繁男氏本人が出演し,「ニニウ駅開設の呼びかけ」というポスターを張るシーンがあるが,伊藤氏自身はそういうことはしていないと言ったそうである。 しかし,地区によっては駅の建設を現実として捉えていたところもあったようである。 例えば新登川駅については,「駅を造るから土地を売ってほしい,と国鉄に言われて農地7反を融通したのに,結局駅はできんかった。国鉄にだまされたんじゃ」「駅ができなかったんだから,開業後はせめて信号待ちの列車ぐらいは乗り降りさせてくれてもよかろうと,今,町を通じて陳情している」との住民の声が石勝線開通当時の新聞に載っている。 |
自給自足の生活
山本:今こうやって現代社会で暮らしていると,ニニウからあまり出ずに,ニニウの中で暮らしていけたというのが,今となってはすごく不思議な感じがしてしまうんですけど。会田さん,実際にその中で生活されていて,散髪に行ったりとか,前に話聞いたことがありますけど,中央で演劇があるから,演劇見に行くとか,月に1回出ることはありますか。
会田:そうですね,月に1,2回。2回も出たらいいほうですね。
山本:月に1回くらい出ればそこで生活が成り立ってしまうというのは,やはり何でもあったということですかね。
会田:何でも,って(笑)。
山本:何でもって変な言い方ですけど,暮らしていくのに必要なものは。
会田:食べ物はまあ,何とかあったのでしょうが,それ以外は,洗剤とか日用品は,買いに出ないとなかったです。
山本:それは共同で買いに行ったり。
会田:いや。
山本:それは個々で。
会田:ですから,ちょっとしたものは親が買ってきてくれましたね。
ニニウを離れる
山本:昭和38年に,台風でやっぱり被害がかなりあったのですか。
会田:大体水田が土入っちゃって,畦がなくなっちゃって。ですからもう作るのだめだし,畑も半分くらい流されちゃいましたから。そこであきらめようと思っていたときに,当時助役だった小川さんがちょっと手伝ってくれないかということで言われまして,そこで思い切ってやめたんです。
山本:小川さんて,あとの村長さん。
会田:当時は,助役で,そのあと村長になりました。それで水害の後始末の,土木の測量なんかの手伝いを1年して,そのあと農協から声がかかって勤めました。
山本:奥さんと結婚されたのはそのあとですか。
会田:そうですね。農協入ってからです。
山本:さっきもおっしゃっていましたが,お母様とお父様はずっとニニウにいらしたのですね。
会田:ええ,僕が出てから10年くらいあとまで残っていました。
山本:お父様,お母様がニニウにいた最後の頃というのは,住人はあまりいなくなって。
会田:そのころからだんだんと。営林署がなくなりましたから,そうしたらだんだん人が出ちゃったのです。仕事がないことには人が住めないですから。
山本:そこもニニウの不思議なとこなんですけど,道路ができて電気が通ってどんどん人が減っていくという(笑)。全くほかとは逆の現象が起きてしまっている。
会田:便利になったから出やすくなったのでしょうね。
山本:それは言えますね。占冠も高速通ると危ないですね(笑)。出やすくなっちゃうから。
昭和37年の水害当時,ニニウは戸数25戸,人口141人だったが,その後も多くの農家はニニウに残ったらしい。ニニウの過疎化が進んだのは,直接的には営林署の仁々宇担当区が廃止された影響が大きく,営林署が引き上げると,一気に離農が進み,昭和49年度をもって学校は廃校。昭和49年には18戸あったのが,翌50年には人口20人にまで激減した。 ニニウでは全戸が兼業農家で,平均して収入の4割が農業収入,6割が林業労務による収入だったと言われている。 |
ふるさとニニウ
山本:会田さんはいまでも雪下ろしに行かれているということで,やっぱりニニウに対する思いのようなものは強いのですか。
会田:まあそうですね。やっぱり小さい頃住んでいたものですから。何となく行ってみたいなという。
山本:夏にも行かれたりすることはあるのですか。
会田:山菜の時期に1,2回は行きます。その程度ですけど。
山本:いまだいぶん高速道路で景色が変わってきましたけど,なんかああいうの見ているとどうですか。それで人は入っているような感じもあるんですけど。だいぶん景色が変わったという感じはしますよね。
会田:そうですね。
山本:伊藤さんちもなくなってしまいましたしね。寂しいなと思って見てますけど。
参加者からの質問
山本:なにか会田さんに聞いてみたいなとかそういったことがあれば,聞いてください。
保存食について
参加者:冬は食べ物はどんなものだったのですか。保存食,漬け物とか。
会田:保存食ってそんなになかったですけど,おかず類が,親父がちょっとしたものは中央のほうから買ってきていました。ほかの人はちょっと不便だったかもしれません。
山本:でも食べ物の保存の工夫はひととおりされていたのですよね。
会田:保存ってあんまりしなかったですね。
山本:やっぱり食は,もちろん今みたいにではないでしょうけど,ある程度恵まれていたというか。
会田:まあ,そうですね。わずかでも米は作っていましたから。
山本:今よりもずっと自給率が高いですね(笑)。ニニウの中で全部まかなって。
川遊びのこと
参加者:ニニウに暮らしていて良かったなと思うことは何ですか。
会田:良かったなあ(笑)。夏でしたらね,大川と行っていましたが,毎日のように川に浸ってました,夏場は。冬はスキーやったり,学校の前に傾斜を作って,学校終わったらスキー乗ったりそり乗ったり。ですから子供の頃は割といかったのかなと思います。
山本:川でどんなふうに遊ぶのですか。
会田:水泳ぎしたり。当時は吊り橋の前は舟だったんですよ。それを4,5人集まったら,舟を外して,上まで引っ張っていって,ずっと舟下りしてくるんですよ。そんなことして遊びました。
山本:舟ってワイヤー張ってあって,たぐっていく渡しですよね。自分で向こうまで行けるようになっている。その舟を外して,怒られないんですか。
会田:いや渡る人いたら怒られます(笑)。滅多にいないですから。
山本:なるほど。それが子供の頃の遊び。
会田:それが楽しかった。
山本:飛び込んだりもできるところもあった。
会田:ちょうど川の向こう側に5,6人くらい上がれる大きな石があったんですよ。いまはそれ流されてないんですけど。その上から飛び込んで潜って,白い石を投げて,あれを取れるかどうかという,そういう遊びはしました。
山本:やっぱり相当深かったんですね。
会田:ええ,自分の背以上の深さがありました。
山本:いま会田さんが言われていたのは,学校の所から真っ直ぐ行って,ここに吊り橋があって,前はそこに渡し船があって,この辺にでっかい石があったのですね。
会田:そうです。2メートル以上ありましたね,深さは。
山本:やっぱり,水量は多かったなという感じですか。
会田:ああ,全然今では話になりません。
山本:ああそうですか。その当時だったら,じゃあラフティングでもやったらすごかったでしょうね(笑)。
水害と川魚
参加者:昭和37年の水害のあとに中央地区では川の水量がすごく減って,魚がすごく減ったんだよというのを聞くんですよね。それまでは何でも魚は捕れたんだけど,それを境に魚は捕れなくなったというのをよく釣りをする方に聞くんですね。でもニニウの場合は,シャケが上がってきていますよね。そのシャケが徐々に少なくなっていって,そのあとそれまでいた魚たちというのは,量の変化はなかったのですかね。
会田:水害のあと,その影響でサケは上がったと思うんです。
山本:ちょうど会田さんもそれくらいでニニウを出ちゃいましたので。魚は水害のあと少なくなったという感じはしました。
会田:少なくなったというのはありますね。
山本:サケ以外は。
会田:だんだん少なくなってきています。農薬というか,15号台風のあと,風倒木ができて,殺虫の薬を撒いていたんです。その影響もあるのではないかという話も聞いてました。
山本:このあいだトマムの大町さんの話を聞いたんですけど,そうおっしゃっていましたね。その防除の薬で,ぜんぜん魚もザリガニもいなくなっちゃったんだと。
電気のない生活
参加者:自分が生まれたときはもう電気があったんですけど,電気がない頃の生活スタイルって,だいたい1日がどういう感じで1日が始まって,1日が終わるのか。
会田:昔はランプだったですね。ランプ,それから,本当に僕が小さい頃はガス灯,火がびゅっとでるやつ,そんなの使っていましたから。だいたい夏場でしたら4時半,5時頃から起きてましたね。晩は,8時,9時くらいまでですか。9時過ぎたら寝る頃くらいの時間。冬場でも6時ったら起きてましたから。でないと親が出る時間が間に合わなくなってしまいますから。
山本:冬は夜が長いから大変ですね。やはりランプをつけて。
会田:ランプをつけて。石油ランプを。
山本:中央のほうで話を聞いたときに,夏でも煮炊きするのに年中薪ストーブはつけていたと聞きましたけどね。
会田:そうです。
山本:いまは上の三重になっているふたはあまり使うことがないですけど,昔はあれを外してそこに鍋を置いて。
会田:そうです。
山本:電気がない。ちょっと考えたのですけど,鬼峠フォーラムを来年ランプでやろうかと(笑)。すぐ眠くなっちゃうでしょうが。
山本:じゃあそろそろ寒くなってきましたので,この辺で会田さんから昔の話を聞くというのはおしまいにしたいと思います。このあともまだ会田さんまだいらっしゃいますので,聞きたいことがあれば聞いていただいて,今日は皆さんニニウに行って,実際に会田さんの家も見せていただきましたので,イメージが膨らむと思いますので,ぜひいろいろ聞いてみてください。長い間ありがとうございました。
会田:雨の中本当にありがとうございました。
18時25分終了。
山奥の開拓地というと暗いイメージばかりが語られがちだが,会田さんのお話からは暗さはみじんも感じられなかった。しかし,だからといって,ニニウが何でもあって豊かで住み良いところだったと考えるのも早合点に過ぎると思う。たしかなのは,家族が食べていけるだけの仕事はあったということである。食べていけて,かつ,そこに人間本来の家族の営みがあったのだとすれば,今の我々が失ってしまった人間らしい生活がそこにはあったのだと考えることができるのではないだろうか。
●18:35 ドラマ鬼峠鑑賞
昨年に引き続き,8ミリフィルムの鑑賞も予定されていたが,撮影された長谷川さんが風邪で来られないとのことで,昭和59年に放送されたSTVドラマ「鬼峠」を鑑賞することにした。ドラマ「鬼峠」は毎年鑑賞しているものの,今回初めて参加する人も多く,昨年は食事をしながらだったので,あらためてしっかりと鑑賞しようという趣旨である。
鑑賞にあたって,ドラマの中で特にポイントになっていると思われる次の場面
・鉄夫が「鬼が出た」といって枯れ葉を舞上げる場面
・鉄夫が一軒家の灯りを見て,札幌に行くことを思いとどまる場面
について,その意味を皆で考えながらドラマを見ることにした。ドラマが終わった後,何人かの参加者と議論できたとことは有意義だった。