2. 午前の部(予定を変更して)
●2011年3月12日(金)
8:00 道の駅「自然体感しむかっぷ」集合
大地震から一夜が明けて3月12日の午前8時。事前申し込みのあった30余名の参加者は,ほぼ全員が占冠の道の駅に集まっていた。
三陸沿岸や仙台に親類のある人もいるであろうが,現地は電話も通じず,いまはどうにもしようがない。
8:07 オリエンテーション
8時7分,オリエンテーションが始まった。
大地震の被災地では既に1000人以上の方が亡くなっているようだとのことで,まずは参加者全員で黙祷を行った。
続いて,山本さんから鬼峠越えの中止が発表された。理由としては,まだ余震が続いていること,この状況で何か事故が起こすことは許されないこと,そしていまは「山が怒っている」のであり,そういうときに山に入ることは無謀であることが挙げられた。
ただ,せっかくみんなが集まり,夕食も今日のために鹿を獲って用意しているということで,午前中はコミュニティプラザでビデオ鑑賞などをやり,午後のニニウワークショップ以降はほぼ予定通り開催することとなった。
そういうことで,まずは参加者ひとり一人,自己紹介を行った。
集まったメンバーは,占冠村内が字中央6名,字上トマム3名,字占冠と字双珠別が各1名,日高町3名,南富良野町2名,富良野市5名,上富良野町2名,旭川市2名,岩見沢市1名,札幌市1名,真狩村1名であった。いつもとはまた少し違った感じのメンバーで,初めて参加したという人が3分の2ほどを占めていた。新聞記事を見て参加された方も6名いた。
昨年4月に上富良野で開催された「伝承堅雪フットパス」で一緒だった方も4人おり,その方たちもやはり新聞記事を見て申し込んだそうである。
今回初めて,道新の富良野版ではなく「旭川・上川」面に告知記事が載った。この記事を見て参加された方は,富良野沿線以外では結果的に1名だけだったが,その方が大変なビックゲストであった。
その方は,元営林署職員の持田則安さんで,鬼峠がまだ現役だった昭和35年4月4日に,ニニウ地区の担当技官として占冠に赴任されたそうである。
教育委員会の取り計らいで,コミュニティプラザの会議室を確保していただき,午前中のフォーラムの会場となった。
8:45 鬼峠フォーラム 於・占冠村コミュニティプラザ
山本さんの司会進行で,ぶっつけのフォーラムが始まった。
○鬼峠のルートについて
まずは例年,鬼峠越えの隊長を務められている細谷さんから,鬼峠のルートの概要について説明があった。
地図は,初代のルートが掲載されている大正8年版の地形図と,現在の地形図に新旧ルートを落としたものの2種類を,私のほうで用意しておいた。
これまでの過去4回の鬼峠フォーラムで,新旧ルートとも概ねトレースできているとは思うものの,「自分からすればまだすべてが違う」「もっとゆっくりと当時の状況を考えながら越えてみたい」とおっしゃる細谷さん。地図を見ながら,約20分間にわたって詳しい説明をいただいた。
山本さんからも,
「鬼峠を越えるということは,単純なレクリエーションではなく,歴史を感じたり,当時峠を越えていた人の気持ちを感じること」
「当時,占冠でさえ陸の孤島と言われていた。ニニウはそこからさらに峠を越えた行き止まりの集落であった。ところが,そこで暮らしていた人たちの話を聞くと,意外にも幸せそうな暮らしをしている。たぶん厳しいこともたくさんあったと思う。ただ,そこには現代社会では考えられない,循環型の社会,助け合いの社会があって,意外に幸せそうな暮らしをしている。そこに,私たちがこれから現代社会を生きていく中で,学ぶこともたくさんあるのではないか」
というお話があった。
○ニニウ地誌概要説明
次に,私から資料に基づいてニニウの地誌概要の説明を行った。今回,少し気合いを入れて資料を用意したものの,予定どおりのプログラムだったら,これを説明する時間がなかった。思いがけず,ここで時間が取れたのはよかった。
資料の一つは,鬼峠やニニウに関する出来事を年表形式で整理したもの。もう一つは,ニニウや鬼峠について記述された様々な資料の抜粋である。
ニニウ生まれで,新入小学校が閉校となった小学校3年生のときまでニニウに住んでいたという,Iさんが初めて参加してくださり,補足説明をいただいた。開拓農家としてニニウに最後まで残った方を祖父母に持つだけに,ふるさとへの思いを感じさせるお話であった。
持田さんからも,金山営林署仁々宇担当区勤務時代の話をいただいた。大変貴重なお話なので,以下にその内容を記録しておく。
「仁々宇担当区には,昭和35年の4月から昭和37年の3月まで2年間勤務しました(注:営林署関係ではニニウを仁々宇と表記する。事務所自体は中央市街地にあった)。4月4日に占冠に赴任し,4月6日に雪の鬼峠を歩いて越えてあいさつ回りに行きました。当時ニニウは学校の先生も含めて27戸〜28戸くらいの部落でした」
「昔は王子製紙がパルプのために伐るのは針葉樹だけで,広葉樹は伐る値がありませんでした。伐った木は流送で穂別まで持って行って,穂別で水切りをしてそこから苫小牧の工場に運んだのです」
「最後の流送をやったのが昭和35年の5月の上旬でした。その時は36,000石(10立方尺=1石),ですから9,700立方メートルくらいの丸太を,それを雪融け水のいちばん多いときに赤岩にアバを組んで,そしてアバを切って流したのが占冠村の流送の最後でした。たぶん北海道で丸太として流送で流したのはそれが最後ではないかと思います」
「当時,ニニウの部落の人たちは,直接の山との関わりを持っていなかったのです。関わりがあったのは森林愛護組合というのがあって,それに入ってもらって山火事の予防などをやってもらいました。また,暖房用に薪の払い下げをやるとき,その立木の調査をやってもらう,そのくらいの関わりでした。あとはKさんという方のみが夏の間も火防従事という形で働いてもらいました」
「昭和35年の10月に仁々宇橋ができて,初めて車でニニウに行けるようになりました。それから36年にパンケニニウに林道が入りまして,それから営林署で木を伐ることを始めたのです。先ほども言いましたように,昔は針葉樹しか伐らなかったものですから,センノキだとかマカバだとか,合板用のものすごい良い木が残っていて値段がついたのです。そこに目をつけたベニヤ会社3社ぐらいが,政治的な力を使って乗り込んできて,山を買い占めて木を切ろうとしたが,それではだめだということで,国有林の直轄で伐採を行い,丸太をベニヤ業者で分け合うことにしたのです」
「パンケニニウの石綿鉱山の話は当時も聞きましたが,熊が出るのでとても歩いては行けませんでした」
「当時駅逓跡は阿部トキさんがやられており,ニニウに行ったときにはそこに泊めてもらいました」
「私は昭和37年の4月で占冠を離れましたが,その年の8月に洪水で中央地区が水没し,悲惨なことがいろいろあったと聞いています」
「昭和32年に旭川のJCが来たという件ですが,当時斉藤木材の工場が占冠にあり,そこの社長さんが旭川のJCの役員をやっており,その方の働きかけが大きかったと聞いています」
ここまでで,1時間半ほどが経過した。参加者からは「即興とは思えない素晴らしいフォーラムになっている」「ただ歩くだけと思っていたが,こんな話が聞けるとは思っていなかった」「鬼峠がまさか2つあるとは思ってもいなかった」との声が聞かれた。
○ドラマ「鬼峠」上映
ここで5分間の休憩をはさみ,ドラマ「鬼峠」を上映した。昭和59年12月23日に放送された札幌テレビ放送(STV)制作の1時間ドラマである。
見終わって,「最後,札幌駅で永島瑛子さんが待っているときに看板に『アルファ』という文字が出ているのですが,ドラマが放送された前の年にアルファリゾートトマムが開業しているのですね。村としてもリゾートで大騒ぎしていたときで,その時にわざわざアンチテーゼとしてニニウが番組になったというのも何か時代を感じさせるもので,それを今になってみんなで集まってこうして見ているのは不思議な感じがしました」と山本さん。
11時12分で,午前中のフォーラムは終了。
12時にニニウ行きのバスが出るということで,和室で昼食をとった。本当は峠で昼食をとる予定だったので,ほとんどの参加者が冷えたおにぎりを食べていたが,こんなことなら道の駅でおいしいものを買えばよかったという声も聞こえた。