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6. 村のたたみ方

●日本のチベット

今回のフォーラムの資料として,1957年7月のJC旭川によるニニウ訪問の実質的な企画者であったと言われる斉藤一郎氏(斉藤木材社長)による「日本のチベット・ニニウ部落訪問記」のコピーを用意した。これは旭川営林局の機関紙である「寒帯林第79号」(旭川協林会,1959.11)に掲載されたもので,昨年の鬼峠フォーラムに参加された元金山営林署仁々宇担当区主任(1960.4〜1962.3在任)の持田則安さんから提供を受けた。

  

持田さんには残念ながら今回のフォーラムに参加いただけなかったが,3月10日に旭川のご自宅を訪ねてお話を伺うことができた。併せて,ニニウについていくつかの見解を綴られた手記を託されたので,その中から「ニニウは本当に『桃源郷』だったのでしょうか」という一節を引用してみたい。

私は,昭和35年4月6日にニニウの部落に着任の挨拶回りで雪の鬼峠を一人で越えていきました。ニニウについては斉藤一郎氏の「日本のチベット・ニニウ部落訪問記」を読んでいましたので,それなりに想像していましたが,第一印象は「平家の落人集落」ではないかと思いました。
昭和35年の9月に鵡川に架かる仁々宇橋が完成し,ニニウの集落まで自動車が通行可能になり,陸の孤島だったニニウにも少しは文明の兆しが見えたものです。明治期にここに定着された先人はまさかこんなに長い間,これだけ不便な生活を強いられると想像していたでしょうか。
当時,夏期間に数度ニニウの下流約5kmの営林局界(支庁界)で業務の打合せがあり,鵡川の右岸沿いにあった馬車道を歩いて通ったものです。この道はあまり使用された形跡はありませんでしたが,鬼峠道路の開削に比べて地形的にも経費的にも問題がなく,なぜに穂別町福山から道路が開削されなかったのでしょうか。
私は十数回鬼峠を越しましたが,その都度思ったことは,ニニウの悲劇は上川と胆振支庁の境界が鬼峠になく,行政区界のいたずらで行政に取り残された集落で,あまりにもむごく,私は鬼峠はニニウの悲劇と思っておりました。

このようなニニウ史観はむしろ一般的なものだと思う。しかし,鬼峠フォーラムを通じて,様々な立場でニニウと関わってきた先人の方々からお話を聞くと,それぞれでニニウに対する見方はまったく異なっていることに気づかされる。

例えば,同じ時代に役場の吏員としてニニウに通っていた長谷川耿聰村議によると,日本のチベットというのはニニウのみならず占冠村そのもののたとえであり,屈辱的ではあるが他所の人に会う時には「日本のチベット・占冠」と言わざるを得なかったのだという。そんな日本のチベットにあって,ニニウは村でいちばん暖かく作物は何でも作ることができ,行けばみんなが温かく迎えてくれた良いところだったとこれまでのフォーラムで何度も語られてきている。

また,過去のフォーラムで,かつてニニウに住んでいたという方には計9名の参加をいただいているが,その方々からの話からは悲惨な印象はまったく感じられない。かといって,いきなりニニウを桃源郷だと言い切ってしまうのもたしかに違和感があるのだが,時代は変わっており,現代なりの解釈もありうる。要は,鉄道の開通を夢見て入植したものの,開通を見ぬうちに雲散霧消した悲惨な集落であるという通り一遍の解釈は一度捨てて,自分の足で鬼峠を越えた上で,ニニウに集落があった意味を考えてみることが重要なのではないだろうか。

●ニニウ神社をどうするか

ニニウ神社がまだ残っていると聞いて,ニニウのGさんに案内されて訪ねたのか2005年9月。既に廃社となっており御本尊は不在だが,ニニウのサイクリングターミナルが営業していた頃には,大晦日の宿泊客で初詣を行っていたという。

ニニウに残っていた農家の廃屋が次々に倒壊する中で,神社だけは人が住んでいた証として永遠に残ってほしい。あの小さな社殿なら,残そうと思えば残せるはずである。それは私の個人的な思いであるが,鬼峠フォーラムでも2008年以降,必ず神社を訪ね,雪下ろしを行ってきた。

2008年2月11日 2009年3月14日 2010年3月13日 2011年3月12日 2012年3月24日

しかし,今年の大雪で一気に傷みが進んだ。このままでは恐らく次の冬には倒壊するであろうことは誰の目にも明らかだったと思う。

ニニウ神社を何とかしようという話は以前からあった。昨年の新年会では,境内にみんなで集まれる社務所を建てようという話も出ていた。

もちろん会田さんほか元ニニウ住民の方々と現住民のGさんがどう思われるかということが前提であるが,社殿に手を入れるとすればいまである。いまであれば,それほどの労力をかけることなく,社殿を延命させることができる。これが,完全に倒壊してから復元しようとすれば,ほとんど新築するのと同じ手間がかかる。

そんな中で,夜も深まってから,ニニウ神社を何とかしたいという話を切り出したのだが,思いがけず待ったがかかった。その場に居合わせた4人による議論は紛糾し,深夜2時過ぎまで3時間にわたって続いた。以下に,あくまでも私の理解の範囲内であるが,論点となったことを書いておきたい。

○形と心

社殿を残すべきという意見に対し,心が伝わればよいのであり,形にこだわりすぎではないかという反論があった。このままにしておけば朽ちていくだろうが,すぐに跡形もなくなるということはなく,完全に朽ちるまでには数十年かかる。少なくとも我々の生きている間はいくらかの跡形が残っているはずであり,それを見守っていくことで感じるものは大きいのではないかともいう。こうした考え方は,既に4年前に山本さんがエッセイに書かれている。

「廃墟となった学校や廃屋や駅のホームが解体されることなく朽ちていく様は,たしかに異様で悲しくなる景色だ。きっと右肩上がりの思考しか持たない現代の日本人には我慢がならないものだろう。しかし,私はこれを恐れるべきではないと思うのだ。町が,学校が,風や雨や雪や草やツタによって徐々に風化していく。長い時間をかけて崩壊し分解されていくその姿は野生動物の自然史にも似て,本来はあたりまえの事ではないだろうか。開拓時代の廃屋が数多くある村に暮らす私は,人の遺した物が自然に抱かれて還っていくことを受け入れていきたいと思っているのだ」(「EastSide」No.19,2008.9)

最初これを読んだとき,私は衝撃を受けたが,そのとおりだと思っている。しかし私は,ニニウ神社は特別な存在だと思いたい。理想を言えば心さえ伝わればよいのかもしれないが,人間は完ぺきではない。心だけを伝えることはとても難しいのである。だから昔から知恵として「形」が利用してきた。武道,華道,茶道などはみな形を重んじ,形を通じて心を伝えてきた。あるいは記念すべきことは石碑を建てて形にして残してきた。もちろん,心が忘れられ形骸化しては意味がないが,伝えるためには心と形と両方が必要なのである。ニニウの記憶を伝えるために,せめて神社くらいは形として残してはどうだろうかと思っている。

○歴史的に価値があるということ

例えば文化財のような価値ある建物であっても,保存しようとすれば,維持費用がかさんだり,そこでの経済活動が制限されたりで困難な問題にぶつかることがある。しかし,そうした諸事情は顧みず,ひたすら歴史的価値を訴えて保存すべきだと主張する立場がある。例えば日本建築学会では解体の危機にある歴史的建築物に対し,保存に関する要望書を施設管理者や自治体に対して数多く提出してきている。そうした運動にもかかわらず解体された建物も多いが,残された建物もあり,結果的に地域の宝として蘇った建物も少なくない。

一方で,歴史的に価値のある建物しか保存されないということに対し,私は疑問を持ってきた。心を伝えるための建築物の保存だとすれば,権力の象徴であるような建物ばかりが残されるということは,偏った歴史が伝えられることになるのではないか。庶民が暮らした建物こそ保存されるべきだと考えるが,縄文時代の竪穴式住居以降,庶民の建物が保存,復元された例は皆無に近い。

だから,建築工学科の卒業設計として取り組んだニニウ博物館では,当時残存していた廃屋を,エコミュージアムのサテライトとして取り込んだ。結局,その後13年余りの間に,会田さんの住宅を除いてなすすべなく倒壊し,または意図的に解体された。

しかしながら,このような考え方はやはり少数派である。ニニウ神社に対して,「誰かがたまたま作ったものをなぜ永遠に伝える必要があるのか」「もし必要であれば時代に応じて新しいものをまた作ればよい」というような意見も出た。

○自分たちの世代で幕を引く

「ニニウには地域がないのに,1年に一度のイベントのために神社を維持するなど,はっきり言って無駄だ」という意見も出された。この意見の背景には,字占冠神社が,地域の神社として維持していくための切実な問題に現に直面しているという事情があったようである。

字占冠地区では小学校が2005年度をもって廃校になった。ある当事者から,廃校に至る経緯を聞いたことがある。地域住民としては,学校を残すために山村留学などやることは全部やった。それでもどうにもならなかった。もしいまの状態で残しておいても,後の世代に対して責任を背負うことできない。であれば,我々の世代で学校の幕を引くというべきであるという判断に至ったいうことであった。

後の世代に対して責任が取れないから,自分の世代で幕を引くということは大事だと思う。代々その地に住んでいる人たちは,父祖からいろいろなものを背負いこんでいると思うが,それも当代限りと考えれば楽であろう。しかしそれで本当に良いのだろうかとも思う。本当は伝えるべきものまで自分の代で終わらせていないだろうか。ともすると,貴重な文化が失われ,どうでもよいものばかりが残るということになってはいないだろうか。


人口が減少する地域においては,すべてを残し,すべてに関わりを持ち続けることはできない。新しいことはよくよく吟味して取りかからなければならないし,伝えるものも絞り込んでいかなければならない。占冠でいえば,大きくなりすぎたトマムをこれからどうしていくのかという課題にも直面している。過疎化を嘆くのではなく,占冠村の適切な人口がどれくらいなのかを議論する必要があるという話もこの日あった。

人口減少は人類にとってもほとんど初めての経験であり,それにどう対処していくかは簡単な問題ではない。ニニウ神社を巡る議論と同じことは,これから都市部でもいろいろなところで巻き起こるだろう。

○知床三堂由来記

2010年2月に亡くなられた立松和平氏の最後のエッセー集『遊行日記』(勉誠出版,2010.3)のいちばん最後に,「知床三堂由来記」が収められている。

それによると,知床三堂のはじまりは,神社も学校も何もなくなってしまった集落の人たちから,神社を復興してくれないかと立松氏に相談があったことがきっかけだった。神社の名前もわからない状態であったが,立松氏が親友の住職に相談した縁から,神社ではなく毘沙門天を祀ることになった。御本尊をどうするかと悩んでいたところ,斜里川河口の浚渫工事現場の海底から,開拓時代に流送したハルニレが見つかり,それを彫刻して毘沙門天像にした。落慶法要には法隆寺管長やらそうそうたる僧侶が参列した。以後,宗派に関係なく毎年全国からお坊さんが集まって法要を営み,併せて盛大な野外パーティーが行われているという。


ニニウもいつかそのようなことにならないとも限らない。ニニウにまたたくさんの人が住む時代が来るかもしれないし,そうなればニニウ神社を再建しようという話も自然に出てくるだろう。鵡川の底から,かつて流送で流した木が見つかるということもあるかもしれない。

そんなことを夢見ながら,しばらくは自然体でニニウにまつわる動きを見つめていきたい。


鬼峠フォーラム2012開催報告 完