ニニウのこれから > 鬼峠フォーラム2014開催報告 > 5. 鉄塔に惑わされて

5. 鉄塔に惑わされて

●2014年3月22日(土)

公社管理から指定管理者制に移管して2年目の湯の沢温泉では,昨年12月に薪ボイラーが導入された。近代的な本格薪ボイラーとしては道内初のものである。木質バイオマスを温泉施設で燃料として使用する場合,通常は自動供給が可能なチップ(木材を細かく破砕したもの)ボイラーが採用される。北海道でも下川,滝上,美幌など,造材や製材が盛んな町で既にいくつもの導入事例がある。

しかしながら,占冠の場合,森林資源は豊富であるものの,製材工場がすべて撤退してしまったため,丸太を切断するだけで燃料にできる薪ボイラーを採用することにしたとのこと。初年度だけに,薪の乾燥が十分ではないこと,体力的な負担など課題もいろいろ聞いたが,自然のエネルギーを利用した取り組みの第一歩として,大変注目されることである。

7時,朝食。レストランのメニューも本格的になり,ランチの鹿丼は夏になれば1日に何十食と出るという。

気温は氷点下4℃。ほどよく暖かく,散策日和だ。

8:00 道の駅「自然体感しむかっぷ」集合

峠越えの参加者は22名。

今回のサプライズは,ニニウ出身・伊藤徳郎さんの参加。お孫さんを含め,3世代4人での参加だ。

今回,2代目鬼峠のルートを何と解明したいという我々の意気込みを察してくれたのだろうか,会田さんが声掛けしてくださったそうだ。昭和11年(1936年)のお生まれで,会田さんとともに20代前半まで鬼峠を生活道路として歩いた世代である。

伊藤さんのスキーは,旭川は興林産業製,Kolin印の山スキー。裏にはアザラシの毛皮が張られた年代物だ。これも何十年ぶりかで使うという。

まるでタイムスリップをしたような光景に,何か我々がいるこの空間自体,あの世かこの世かわからない気がしてきた。

8時30分,出発。

 

2kmほど歩き,石勝線弓立沢橋梁下でスノーシュー,かんじきを装着。会田さんが,大きな板チョコレートをみんなに一枚ずつ振る舞ってくれた。

9時9分,まずは昨日最初に歩いた弓立沢左岸を遡る道を行く。

いきなり伊藤さんが,そっちは違うと言って,一人はぐれてしまった。

しかし,過去にもそうして流されて結局現在の道を行ってしまっているので,今日はあくまでも地図ではこっちだったはずだという道を忠実に歩きたい。そうすることで,現役時代を知るお二人にも,また別の記憶が蘇ってくるかもしれない。

 

峠の入り口までに,小川を2回渡ることになる。

当時,馬車で渡るには,木橋を架けるか,あるいは「洗い越し」としていた可能性もあるが,いずれにしても印象に残りそうなものである。しかし,往時を知るお二人からは,昔の道も今の車道のルートと変わらないはずだという以上の証言は得られなかった。だとしたら,旧版地形図に描かれている,明らかに今の車道とは異なるルートは何なのだろうか。鵡川との位置関係が明瞭なこの場所で地形図が誤っているということも考えにくく,この部分はまったく不可解である。

石勝線鬼峠トンネル入口にて記念撮影。

道は向こうだと力説する伊藤さん。

9時半,ふるさと林道鬼峠線に合流。ここからしばらく除雪された道を歩くので,スノーシューを脱ぐ。

地形図の道からすれば,この枝道も怪しいと思っていたが,造材の飯場跡だという。

10時12分,占冠の市街を見下ろす地点で,10分の休憩。

 

さらに10分登り,次の検証ポイントに差し掛かる。下記地形図のA地点である。ニニウ生まれの伊藤さん父子,それに会田さんが地図を確認する。

国土地理院発行2万5千分の1地形図「ニニウ」
昭和49年測量,平成20年更新
国土地理院発行5万分の1地形図「日高」
昭和33年測量,昭和42年資料修正

A地点から峠の頂上にかけての線形は,現在のふるさと林道鬼峠線が北に膨らんでいる一方,旧版地形図は南に膨らんでいる。

ここでもう一つ注目したいのは,送電線である。旧版地形図には既に電源開発(J-POWERの前身)の十勝幹線が記載されている。ところが,現在のJ-POWER十勝幹線と比べて,道路との位置関係がかなり異なっているのである。


「糠平足寄発電所十勝幹線」(電源開発,1956)

十勝幹線は糠平,岩松という東大雪の水力発電所と道央地区の工業地帯を結ぶ送電線で,夕張〜狩勝峠間はその第1期工事として昭和29年(1954年)に着手,竣工している。当時としては画期的なものだった。

 

60年も前に建設されていれば,建て替えでルートが変わった可能性もあるかと思い,建設当時の写真を確認したが(写真左,「糠平足寄発電所十勝幹線」(電源開発,1956)より),鉄塔の形状は現在と変わらない。また,昭和52年(1977年)の空中写真では,送電線が現行地形図の位置となっており,旧版地形図の位置で架設されていた跡は見出し難い。したがって,送電線の位置が建設当初から動いていないのは間違いなさそうである。

一方,旧版地形図では航空写真測量がまだ採用されておらず,道は歩いて確かめるしかなかったはずである。実際に歩いたならば,送電線が道を横切る位置を誤るはずはないが,それが誤っているらしいのだから,地形図も絶対に正しいとは言えない。

この送電線には,会田さん,伊藤さんを含めて,このあとさんざん惑わされることになる。

 

伊藤さんも,今度は現在の林道と当時の道の違いに納得されたようで,先頭を切って林道を外れて雪原に入って行った。しかし,我々が想定している方向とは異なっている。

何とか伊藤さんを呼び止めて,これが旧道ではないかと尋ねると,そうかもしれないという。ここは線形もそれらしく,かなり可能性が高い。

しかし,送電線に道を阻まれた。この激しい起伏を当時どうやってかわしていたのだろう。

やむを得ず,想定ルートを外れる。途中見事なカバノキがあった。

最低鞍部のB地点に出た。

いま歩いたA地点からB地点にかけては昭和32年(1957年)の造林地である。植生も当時とはずいぶん変わっていることだろう。


6. 谷は消えていた