ニニウと私 1999年以前
私の出身地,上富良野町からニニウまでは車で1時間半ほどである。さほど近くはないのだが,私の原風景はニニウにあると思っている。
●生まれる前
祖父は戦後しばらく運送業を営んでおり,富良野一円で木材の運搬に活躍していた。昭和30年ごろのことであるからまだ道もなく,木を切り倒しては,道を切り開きながら進んでいったという。実際ニニウに達したのかどうかはわからないが,主に金山,双珠別方面で仕事をしていたといい,祖父の死後に写真帳を整理していたとき,トマムの「泣く木」の写真が出てきた。祖母もニニウのことはよく知っていた。
●1981年10月
4歳。この年10月1日に国鉄石勝線が開通した。占冠村にとっては開拓80年にして悲願の駅ができたのである。私も両親と駅を見に行った。確か,10月の紅葉祭りの日だと思う。占冠駅は「特急しか停まらない駅」として有名だが,当時は「特急と急行」しか停まらない駅で,駅の時刻表に赤い列車名が並んでいたのを覚えている。駅はたいそう賑わっていた。下はそのときに押したスタンプ。他に石勝高原駅のスタンプもあるが,こちらは記憶がない。駅に行った後,紅葉の赤岩青厳峡を見に行った。その絶景は4歳の眼にも印象的で,幼稚園の学習で赤岩の洞穴を絵に描いた。それから,赤岩橋を渡って奥に進んだのは覚えているが,以降寝てしまったのか記憶がない。もしかしたらニニウにも行ったかもしれない。父は昭和60年以前にニニウを経て福山まで行っているらしいので,それがこのときだったかもしれない。
●1985年
小学校3年生。記憶がある中では初めてのニニウ訪問である。前年の昭和59年にサイクリングターミナルが開業した。近所の天ぷら屋の娘さんがサイクリングターミナルで働いているので行ってみようということになったらしい。
サイクリングターミナルなのにサイクリングロードが整備されておらず,自転車も車輪の四角いものや二人乗りのものばかりで,まともな自転車が少なく,幼稚園の年長だった妹は乗る自転車がなくて苦労した。ともかく自転車を借り,全国でもまれな未舗装かつ行き止まりのサイクリングロードを往復した。父などはつまらなく思ったかもしれないが,私にとっては道沿いの廃屋,頭上はるか高いところを行く石勝線など,強烈な体験をした一日だった。この日をもってニニウが私の原風景となったのである。
●1990年7月
中学校2年生。上富良野中学校恒例の「林間学校」はニニウキャンプ場で行うことになった。同級生でニニウに行ったことがあったのは私ぐらいだったと思う。バスが赤岩橋から間違えて日勝赤岩線に入り,がけっぷちの道をバックしたことを思い出すと今でも冷や汗をかく。つり橋はバスが渡れないので荷物をかつぎ,180人の集団がニニウキャンプ場に到着した。
私は生水飲んでをいきなり腹痛を起こしてしまった。夜は感動のキャンプファイヤー。更なる感動はその後の天体観察会。周囲数10kmに渡り人家がないニニウには,満天の星空が広がり天の川が鮮やかに流れていた。そして,周りを見渡せば明るくて目がくらむほどの蛍。慣れぬテントで眠れぬ夜,たまに山間にこだまする夜行列車の音は感傷をそそった。
翌日はグループごとに分かれての活動。サイクリングはすでに経験済みなので,私は「自然観察」の班に入った。清流鵡川での水遊び。その後先生を交えて地球環境問題について語り合った。
この林間学校は,私にとって唯一のキャンプ体験ということもあるが,この世のものとは思えぬ蛍や天の川は強烈な原体験となった。
●1998年5月
冊子として知人に配布した『北海観光節』で占冠の特集を組むことになり,ニニウについて下のような紹介文を書いた。なぜ占冠に注目したのか今となっては不思議に思うが,しばらく疎遠になっていたニニウを思い出すきっかけとなった。この直後,トマムのアルファコーポレーションが倒産した。
○道道穂別占冠線 中央から道道占冠穂別線(注:これは旧名称,現在夕張新得線)に入る。途中赤岩青巌峡があり,紅葉のシーズンには賑わう。この付近はまだ未舗装のはずである。なお,赤岩から直接国道274号名石橋に至る道は通行止めのようである。この穂別占冠線であるが,資料を調べてみると,道道の中では第一級の悪路のようである。このあと,ニニウ付近,国道274と交わる福山付近,富内付近に舗装箇所があるが大部分が未舗装である。路面状態は良好だが,道路の片側は常に鵡川の崖に面していて,対向車とのすれ違いが困難な場合がある。また福山渓谷付近に,覆道の上を土石がおおい出水している危険と思われる箇所がある。 ともあれ沿線は紅葉のシーズンには絶景である。筆者が赤岩の紅葉を見に行ったのは昭和56年10月のことだが,石勝線が開通して間もないこともあってか,かなりの人出だった。対して,昨年福山オロロップ渓谷の紅葉を見に行ったときには,紅葉真っ盛りの日曜日だったにもかかわらず,福山から富内まで対向車と1台もすれ違わなかった。福山渓谷といえば,北海道でも有数の紅葉の見所で,とにかく絶景であるのに,誰も見にいかないとはひどいものだ。 このあたりの道は,筆者の祖父がつけたのだと言う人もある。祖父は戦後しばらく運送業を営んでいて,山からトラックで木材を運ぶ仕事をしていた。中古で輸入したウインチ付きの大馬力トラックと,日産の最新鋭のトラックを従えて,山の中を自ら道を切り開きながら進んだということを聞いている。ニニウにも入ったと聞く。富良野地方の南のほうへ行っても,名前が入った服を着て歩くと,昔世話になったとか年配の人からよく声をかけられる。 〇ニニウ自然の国 さて,ニニウ地区は鵡川の渓谷を抜け出して,小盆地上の地形をなしている。占冠村の中でも最も温暖な気候で農耕適地であるが,遠隔地で,交通の整備が遅れたので急速に過疎化が進んだ。今でも人が住んでいるのだろうか。かつては新入小学校もあり,今は林間学校として利用されているという。離農跡というのはとても寂しい情景で,いつも涙が出そうになるくらい感じるものがある。滝里や大夕張などダム建設によって強制移住させられたところは世間の注目を浴び,いずれダムの底に沈む。しかし,ニニウなど条件が厳しいために人がいなくなったところは,誰にも見取られず,静かに元の森の姿へと帰っていくのであろう。北海道の開拓は,まさに自然との闘いの歴史であったのだと実感する。 近年ニニウ自然の国が整備され,昭和59年に宿泊研修施設サイクリングターミナルがオープンした。サイクリングロードは珍しい未舗装で,鬼峠方面へ伸びている。途中で通行止めに突き当たるが,この先鬼峠経由で占冠に道が通じているはずで,昔はニニウの住民は鬼峠経由で村に出たという。サイクリングロードの脇には廃屋もあって泣けてくる(注:現在はなくなった)。電気もない辺境の地での生活はどんなに苦労しただろうかと思う。しばらく進むと,石勝線が第三ニニウトンネルと鬼峠トンネルの間からわずかに顔を出している。はるか高いところにある鉄橋の下をサイクリングロードがくぐる。列車からも注意してみればわかる。鬼峠トンネルの中にはかつて鬼峠信号場があった。いかなる理由で廃止されたのか知らないが,「鬼峠」という名前には,何か感じるものがある。石勝線はこのあたりはほとんどトンネルだが,窓からたまに見える景色は森の海である。林道や信号場の建物があって,それほど奥地という実感はないかもしれないが,人家は全くないことに気づくであろう。北海道の中でも正真正銘の最奥地である。 |
●1998年6月
札幌のギャラリーR-BOXで全道の建築卒業設計の展示会を見た。私も建築を学んでいる学生で,この年12月から卒業設計に取り掛かることになっていた。展示会の講評では,敷地にもっと思い入れを持つことが必要だと強調されていた。私にとってそのような敷地はどこだろうか。その場ですぐに思いついた。ニニウである。ニニウには清風山信号場がある,そこを駅として設計しよう。経営行き詰まりのトマムに対し,ニニウで占冠の再生を図るということでも話が面白くなる。一瞬にしてストーリーが出来上がった。早速,家に帰って信号場の位置を確認した。
はやる気持ちを抑えきれず,次の日曜に単独,列車にて占冠へ。無謀にも,徒歩にてニニウへの到達を試みようとしたのであった。赤岩にて道道落石のため通行止め。今考えれば通行止めでよかった。福山側からのアプローチは可能であることを確認した。
●同 2週間後
日ごろからお世話になっているれんがもちさんが,単独到達を試みようとした私の意気込みを買ってくれ,車でのニニウ訪問をOKしてくれた。8年ぶりのニニウ。私のイメージしていた以前と変わらぬ桃源郷がそこにあった。サイクリングターミナルで自転車を借りニニウをひととおり巡って廃屋など写真におさめた。占冠方面の道道通行止めとあって,人はおらず,熊におびえながらの調査だった。笹が突然ガサガサッとなったときはもうおしまいかと思ったが,現れたのは鹿だった。ニニウは不思議の多いところ。私たちはこれらをニニウの7不思議と名づけて大きな収穫と課題を札幌に持ち帰った。
初夏の清風山信号場
●1998年10月
2度目の調査。またれんがもちさんに無理にお願いして車を出してもらった。ニニウがわかる人などめったにいないが,れんがもちさんはニニウについて共感できる友人で貴重な人である。前回調査漏れの個所を写真に撮って,開通した道道を通って占冠に抜けた。鬼峠トンネルの脇の鬼峠旧道が「ふるさと林道鬼峠線」として開削されていた。新たな謎が生まれた。占冠物産館の2階に「占山亭」という素晴らしいレストランを見つけたのもこのときである。
錦秋の清風山信号場
●1999年1月
12月からいよいよ卒業設計に取りかかった。実際にはじめてみると新たな疑問が湧く。敷地の形状も地図からではわからない。道道夕張新得線は冬季も通れるが,れんがもちさんにお願いするのは申し訳ないので,単独列車にて占冠を訪れた。占冠の図書館は大変立派で有益な資料を多く得た。トンネルが多い石勝線では外が見えるのは一瞬で,占冠−新夕張−占冠−新夕張と列車で3回ニニウを通り車窓にくぎ付けで観察した。ちなみにこの日南富良野の金山駅で映画「鉄道員」のロケを見た。
冬の清風山信号場,列車窓より
●1999年2月
卒業設計発表会。ほとんどの学生が市街地を設計対象敷地に選ぶ中,山奥の極みであるニニウを敷地にしたことは多少注目されたが,一人ニニウを知っている先生がいただけで,誰もニニウは知らなかった。内容を逐一検証できるのは一緒にニニウを訪ねたれんがもちさんだけだった。なお,卒業設計の一部は本ホームページの「ニニウ博物館」に掲載している。
ちなみに同級生で駅をテーマにした者がほかに2人いた。1人は張碓駅にギャラリーを作るという計画,もう一人は篠路駅の倉庫群を取り壊して再開発するという計画。みんなけっこう無茶苦茶なことをやるものである。
●1999年11月23日
約1年ぶりにニニウ探訪。道庁が募集している北海道遺産にニニウを応募しようと思い,どうしてもニニウの現況を確認しておきたかった。かねがねれんがもちさんにお願いしていたのが,雪の降る直前にようやくかなった。今回の大きな収穫はニニウで高速道路の測量が行われていたことと,キャンプ場の奥の丘に植樹がされていたことである。村の観光パンフレットにも載っていない,誰が訪れるのかという丘に,とりあえず道があるので登ってみようということで進んでみると眺望絶景の丘に木が植えられていた。占冠の人のニニウへの思い入れはいかばかりのものがあるのだろうか。本当に頭が下がる。高速道路についてはニニウに高速道路ができるで詳述している。