旧神居村・江丹別村界の江神橋を渡り,再び函館本線旧線のサイクリングロードに入る。
石積みの擁壁がそのまま残り,40年前の電柱がまだ艶のある姿で立っていた。
嵐山公園への遊歩道に入る。
急な遊歩道の脇にはカタクリやエゾエンゴサクがびっしりと咲いていた。
国見の碑
嵐山とは京都の嵐山に似ていることから名付けられたものだが,実際に西京(京都)に対して旭川に北京を置くという構想が明治時代にはあった。のちに初代北海道庁長官となる岩村通俊,同2代目長官となる永山武四郎らは,明治18年8月27日,近文山に登って国見を行い,その帰途「北京を上川におくの議」を書いて政府に提出した。
近文山の頂に立つ国見の碑は,岩村通俊自ら碑文を草したもので,明治19年に建立されている。
国見の碑から旭川中心部を見る。明治22年には内閣総理大臣の宣達により,離宮予定地を市街南東の神楽岡に定めたが,札幌地区から猛烈な反対の声が上がり,結局上川離宮は実現しなかった。
なお,旭川を北海道の首都にするという構想はこの後も旭川の人々の中に生き続け,明治42年には北海道庁庁舎焼失をきっかけとして,激しい道庁の移転運動が巻き起こった。このときも札幌地区の激しい反発により日の目を見なかったが,これらの事実が100年経った現在でも旭川と札幌の関係に微妙に影を落としているように思われる。最近になってようやく札幌の人が旭川に赴くようになったが,そういう意味ではたしかにラーメンと動物園は旭川に革命をもたらしたといえるのだろう。
嵐山展望台
国見の碑から尾根伝いに1.5kmで嵐山展望台へ。ここは高校2年の遠足以来14年ぶりの訪問となる。
旭川は中心部を石狩川が貫流し,支流の美瑛川,忠別川,牛朱別川が分かれている。そのため旭川は,「川の街」「橋の街」とも呼ばれる。
嵐山の東斜面はみずみずしい緑がまぶしかった。
アイヌ文化の森・伝承のコタン
嵐山の一帯はアイヌがチノミシリ(聖なる地)として崇め,神送りの場として利用していたところである。ここには古くから観光用にアイヌ住居が復元され,この地方独特の笹で覆われたチセが2棟建っている。
写真右は幕末から明治初期にかけての上川アイヌの酋長・クーチンコロをたたえる顕彰碑。
オサラッペ川の河畔にある嵐山公園は,北方野草園を散策したりピクニックをする人達で賑わっていた。