オサラッペ川対岸の丘陵は「嵐山陶芸の里」と名付けられ,焼き物の工房が建ち並んでいる。
「野草園入口」バス停が嵐山公園から1km近く離れていたのは予想外で,予定のバスに間に合わず,次の目的地のアイヌ記念館までまた歩くことにした。
国道12号旭川新道。およそ30年前から工事に着手し,平成7年にようやく全通した。
昨日で開店から丸3年を迎えたイオン旭川西ショッピングセンター。
近文は北海道を代表するアイヌ部落である。かつて北海道を訪れる観光客は,白老か近文のどちらかのアイヌ部落に必ず寄ったといわれるほどだが,それほど有名になったのは,アイヌの人達の権利を巡る近文アイヌ給与地問題によって,全国に近文の名が知られたからであろう。
現在の緑町,錦町,北門町の一帯が,上川のアイヌの人たちを集めて農耕授産にあたらせたアイヌ給与予定地だが,現在ほとんど面影は残っていない。
北門中学校・知里幸恵文学碑
その中で,北門中学校の前庭に建つ知里幸恵文学碑は,ここがアイヌ部落だったことを伝える数少ないモニュメントである。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵は登別の生まれだが,6歳の時に旭川の伯母金成マツのもとにあずけられた。そのときの住居跡にこの文学碑は建っている。
錦町通の商店街。
川村カ子トアイヌ記念館
もう一つ,アイヌ部落の名残をとどめているのが川村カ子トアイヌ記念館である。明治20年ごろ近文に移住した川村家は,古くから自宅を公開し,大正5年に道内最古の私設博物館を開設した。館内には生活用品や衣服のほか,先代の川村カ子トが建設に携わった飯田線の工事関係資料が展示されている。記念館奥の売店には木彫りの民芸品屋が並んでいた。
北海道教育大学旭川校第二体育館。大正11年に北海道旭川師範学校として創設された教員を養成する国立大学で,私が小学校から中学校にかけて教育を受けた先生も多くがこの大学の出身者だった。
大町岐線跡
函館本線近文駅から分岐していた大町岐線の跡は,「北の散歩道」という遊歩道になっている。もともとは第7師団建設のために敷かれた軍用鉄道で,戦後は旭川大町貨物駅が設置されて燃料用の石炭などの輸送を担ったあと,昭和53年に廃止されている。
大有小学校
北海道教育大学附属旭川小学校の前身である北門尋常高等小学校に対し,昭和3年に新北門小として開校している。
北門中学校や北鎮小学校などというのはまさに軍都旭川を象徴する校名であるが,「北」と書いて「ホク」と読ませるのが旭川らしいところである。
例えば私が通っていた旭川東高校の前身は庁立旭川中学校で,戦前には加藤隼戦闘隊の加藤建夫少将ら多くの軍人を輩出しているが,現在でも「シマレガンバレ」の学校標語のもと,文武両道を目指した教育が行われている。
この高校の校歌の2番は次のような歌詞である。
大空まどかに秋の日さえて 石狩明るく静けさ満てり
年々変わらず自然はあれど あゝ幾年かふりにし故郷
君と我こゝに集いて 人の世の正義を思い
更に又北国の文化をつがん 北国の文化をつがん
最終フレーズの「北国」は「ほっこく」と読む。また,この高校の生徒会誌は「北人」と書いて「ほくじん」と読む。北という字はキタと読めば北国の春のような穏やかなイメージが湧くが,ホクと読んだ途端に軍事的色彩を帯びてくる。入学式早々,そうした響きの言葉を耳にして,ああここは軍都旭川なんだと身が引き締まる思いがしたのを憶えている。
旭川大町駅跡。周辺には石炭販売業者がいくつか残っていた。
線路跡は陸上自衛隊旭川駐屯地の手前で車道に変わって途切れていた。古くはこの奥の練兵場まで線路が延びていたそうである。