北海観光節小さな旅行記かみふらの文学散歩と健康散歩

文学散歩『泥流地帯』ゆかりの地を中心に その2

上富良野市街に入る。耕作の同級生福子が父親の借金の抵当に売られた深雪楼があったのは,この付近だろうか。

上富良野神社

 

ここは上富良野中学校の向かいにあって,私も3年間通学で通った懐かしいところだ。中学校の玄関には「吹奏楽部2年連続全国大会出場」と掲げてあった。荒んでいた我々の中学時代には考えられないことだが,母校の活躍は何より嬉しいことだ。

上富良野神社が『泥流地帯』と何の関係あるのかと思ったら,拓一が神社祭で相撲を取った場所だということで,土俵を囲んで説明を受けた。5人抜きの勝負で4連勝していた中富良野の荒木川という男が,深雪楼の福子のところによく通っていると聞き,拓一が突然顔色を変えて土俵に上がり優勝を奪ったという場面である。

上富良野は比較的相撲が盛んな土地で,私の同級生などもまわしを締めてこの土俵に上がっていた。

参加者達は,この規模の町の神社にしては非常に立派だと話していた。私はまったくそのような印象を持っていなかったが,毎年数え年42歳の厄年の男性が集まって神社に鳥居や灯籠などを寄進するという,独特の風習が上富良野にはある。そういう意味では町外の人には新鮮に映ったのかもしれない。

上富良野小学校

十勝岳が噴火したとき,耕作が教員として勤めていた学校。曾祖父と父と私がこの小学校を卒業している。祖父は5年生のときに被災して転校したので,この小学校は卒業していない。

今日のツアーは詳細な行き先を知らされておらず,ミステリーツアーの趣がある。昼食はどこでとるのかと思ったら,町内随一の結婚式場であるプラザ富山だった。

 

700円の昼食会費にしては豪華すぎる弁当と会場。ここで1時間ほど参加者と歓談。

それにしても今日はバスに乗っている間雨がずっと降っているのに,バスから降りるときには都合よく雨が止む。

「普段の心がけが……」

と誰かが言い出して,すぐに静まった。普段の心がけがよければ苦難に遭わなくて済むのか。そうであれば泥流で被害にあった人たちは心がけが悪かったとでも言うのか。いやむしろ,真面目で勤勉だった者が被害に遭っているようにさえ思える。だとしたら神はなぜ災難を下すのか。苦難の意味を問う,ということがこの小説の最大のテーマになっているのである。

昼食を終え,再び泥流の被災地に向けて出発。写真中央の踏切を渡った先が,私の家の入植地である。三重団体の中では市街地に近いところに位置している。

当時家屋だけ少し高いところにあったため,泥流の被害は床下浸水で済んだが,水田20反余りが泥と流木に呑まれた。このときは牛や馬も泣いていたという。

結局,曾祖父は復興を断念し,両親を分家に残して士幌に移住することとなった。30年近くかけてやっと稲作が軌道に乗ったところで,土地を手放さなければならなくなったのは無念だったろうが,当時,病弱な両親と4人の子供を1人で養わなければならなかった曾祖父としては,移住の道を選択するしかなかったのではないかと思う。

田中常次郎頌功碑

次にバスは草分神社の駐車場でとまった。草分地区はその名の通り,富良野原野開拓発祥の地で,三重県からの移民が団体で入植したところである。田中常次郎は上富良野に入植した三重団体のリーダーで,碑は大正5年に建立されている。その頃には開拓から約20年が経過して原野は水田に変わり,それなりに豊かな生活を営むことができるようになっていた。

ところがその三重団体を泥流が直撃したのである。真面目で勤勉だったとされる三重団体がいちばん大きな被害を被る。『泥流地帯』の最終章で耕作の叔父・修平か「三重団体がなあ」とつぶやくシーンが印象に残る。この因果応報とは言い切れない苦難を聖書のヨブ記に結びつけていく,それが小説の骨格をなしているのである。

三浦綾子『泥流地帯』文学碑

さて,神社のところで,厄年会で毎年神社に何か寄進するという風習があると書いたが,それに満足しなかったのが昭和12年生まれ丑年会の人たちで,上富良野町に役立つ何かほかのことをしてみようということで,昭和54年に『かみふ物語』を発刊,そのときのメンバーが中心となって翌年「かみふらの郷土をさぐる会」が発足している。昭和58年の丑年会の会合で三浦綾子さんの文学碑を建ててはどうかとの話が出たことをきっかけに,全町横断的な文学碑の建立期成会ができた。

文学碑建立の話を三浦綾子さんに申し出たとき,やはりそのようなものはふさわしくないと断られたそうだが,復興60周年記念に何とかということでお願いして承諾を得たという。

草分神社の向かいには創成小学校跡地に建つ草分防災センターがある。

上富良野町開拓記念館

十勝岳爆発当時の上富良野村長・吉田貞次郎の住居を移設した上富良野町開拓記念館。

次はいよいよ今日のメインイベント,清野ていさんのお話である。清野さんは吉田村長の次女で,大正8年生まれ。小学2年生のときに被災している。

『続泥流地帯』では,復興派と反対派が激しくぶつかり合う中で,石にかじりつくようにして復興の道を進む吉田村長の姿を軸にストーリーが展開されており,村長の娘のていさんと妹の弥生さんは実名で登場している。

清野さんのお宅には三浦夫妻も取材で何度も訪れたそうである。

開拓記念館には,上富良野町郷土をさぐる会幹事長の中村有秀さんが清野さんを連れてやってきた。中村さんは同級生のお父さんということもあって,私は以前から存じていたが,先月のやはり泥流地帯関連のイベントで初めてお話しさせていただいた。「君は上富良野の人だから,今日は使うよ」とのことで,私も資料の配付を手伝うことになった。

座談会でははじめに中村さんから25分ほどお話しがあった。十勝岳噴火では13もの記念碑があり,一つの災害でこれだけの記念碑があるのは珍しいこと,文学碑建立の裏話などを説明された。

また,清野さんのご主人は読書家だったそうで,旧宅にたくさん残されていた本は,開拓記念館として移築する際に中村さんが寄贈を受けたという。中村さんは,その中から清野さんが新婚当時に購入された本を何冊か持ってこられた。本の扉には,ご主人の思いが綴られており,中村さんが読み上げると,清野さんはしきりに恥ずかしがっていたが,ドラマや小説ではない本物の夫婦愛には感銘を受けるものがあった。

そして,清野さんのお話が始まった。NHKと道新の取材陣にも緊張が走る。長くは話せないが質問にはできるだけ答えたいということで,少しずつ昔の思い出を語り始めた。

爆発の当時,家が新築中で,清野さんはたまたま壁を塗りに来ていた左官屋さんのおじさんに負ぶってもらって逃げて助かったそうだ。その左官屋さんは藤森源蔵さんで,下の写真の方である。

清野さんが「早く早く」と背中で暴れるので,藤森さんは何度も転んだが,それでも清野さんを捨てずに最後まで背負って逃げてくれたとのこと。本当に命の恩人,神様のように思っているそうだ。

 

清野さんの自宅につい先ほどまで掲げてあった木札。この日清野さんの申し出で,郷土館に寄贈されることになった。大正14年8月25日起工,同9月18日建前とあり竣工日は空欄のままとなっている。まさに新築工事のさなかに被災したわけである。大工,石工,土工ら職人の名前と共に,左官藤森源蔵氏の名前も見える。

清野さんからは30分余りほどお話しを伺い,最後に参加者から出た「爆発後お父さんと再会したのはいつ」との質問に対し,再会は翌日のことで,母親が亡くなって辛かっただろうに,私たち家族の顔を見て嬉しそうに笑ってくれた白い歯が今でも忘れられないという話には,胸が詰まるものがあった。

沼崎重平翁彰徳碑

沼崎重平は北海道の開拓医を志して,明治39年美瑛に赴任,大正9年からは旭川で最初の総合病院である向井病院を経営していた。大変な人格者であったといわれており,福子が深雪楼を抜け出して落ち着く先が沼崎先生の病院だった。

『泥流地帯』のラストシーン。節子が福子を深雪楼から連れ出し,一番列車で旭川に逃げていく。逃げるのに成功すれば白いハンケチを汽車の窓から降ることになっていた。耕作はたまらない気持ちで汽車を見る。その傍らでは稲穂の稔る田んぼで,吉田村長と娘のてい,弥生がにこにことしていた。

旭川に行く一番列車は,私が3年間通学した汽車だった。そして今日はそれから80年後のていさんにお会いすることができた。現実と小説が一緒になったような不思議な一日だった。

16時15分,文学館到着。おつかれさまでした。

次へ