北海観光節小さな旅行記かみふらの文学散歩と健康散歩

JRヘルシーウォーキング 上富良野ウォーク その2

上富良野町ではヘルシーウォーキングに合わせていろいろなサービスを企画していた。ヘルシーウォーキングでは,ただ歩くだけではなく,こういう地元の人たちとのふれあいが,参加者たちの楽しみになっているようである。

国道237号線の駐車場に隣接して,近年造成された見晴台公園。

ここは最初の休憩スポットということで,じゃがいも・とうきびの試食,ハーブティーの試飲,ラベンダー匂い袋のプレゼントをすべて無料で行っていた。

見晴台公園で折り返し,市街地に下る。

 

上富良野橋で再び富良野川を渡る。上富良野橋という正式名称を知る町民は少ないが,涙橋という通称でよく知られている。この橋こそが,上富良野にとっては大正泥流の記念碑的存在となっているのである。

涙橋の名の由来は諸説あるが,富良野川に沿って下った泥流は,ようやく涙橋のたもとに来てその勢いをゆるめ,大量の流木とともに多くの遺体がここで発見され,人々は涙したのだという。今でもお寺から火葬場に向かう葬列は,必ず涙橋渡り,町民にとって特別な意味を持つ橋となっている。

涙橋を渡ったこのあたりは,私にとって庭のような場所である。私が子供の頃は素朴な道路で,葬列が通るのと,お盆に墓参りの車で混むくらいだった。

昭和63年から平成元年にかけての十勝岳噴火では,多くの町民がこの道路を走って高台へ逃げた。当時隘路となっていた先代涙橋は,避難上の重要道路と位置づけられ,大改修工事がなされた。その影響で,涙橋のたもとにあった私の家は移転させられ,今は家も,その向かいにあった畑も跡形もない。しかし私はいまでもここに住んでいた頃の風景が夢に出てくる。

結局,上富良野に入植してから110年の間に,私の家は十勝岳噴火で2度引っ越しをさせられたことになる。

しかしだからといって十勝岳に恨みがあるかといえばそんなことはない。恐らく町民はみな同じ思いではないか。吉田村長も爆発十周年に際し,次のように回顧している。

「私の人生に最大の悲しみをたたきつけたのも,また最大の歓びを与えてくれたのも実にあの十勝岳です。私はあの山に頭をたれて半生を過ごしました。」

ただ私は,麓の人の暮らしとは無関係なところで,単なるスポーツや娯楽として山に登る人たちには一寸抵抗を感じるのである。

かつて呉服店,雑貨店,金物店,薬局が四つ角に建ち,上富良野の商店街の中核となっていたマルイチ十字街は,今では雑貨店を継承するローソンのみとのみなった。その1本奥の銀座通り交差点も4つ角のうち3つをパチンコ尾が占める繁華街だったが,いまはどれもなくなった。上富良野の市街地も変わらないように見えてかなり変わっている。

青柳商店前の交差点を左折,といっても今では青柳商店を知らない人も多いかもしれない。

日の出ダムに通じる基線道路。

 

日東会館の角で右折,北27号道路に入ると正面に日の出山が見えてくる。

日の出山は車道を登る。これまで快調に歩いていた参加者も,勾配には弱いようで,歩くスピードがガクンと落ちていた。

本来のコースは車道で展望台まで上がることになっているが,見た限り参加者の全員が途中から遊歩道に入っていた。「定められたコースから外れた場合,その時点で当イベントの参加を中止したものとさせていただきます」とあるので,厳密なことを言えばここで全員失格である。

 

展望台の下では「紫苑米おにぎり&豚汁セット」と「かみふらのポーク100%バーガー」をそれぞれ300円で提供していた。これが大好況で,希望する参加者に行き渡らないうちに売り切れとなってしまった。売店の人は,絶対に使わないと思いながらも念のため持ってきた容器まではけてしまったといって唖然としていた。申し訳なさそうに,山を下りたところにセブンイレブンがありますからと弁明していたが,参加者の奥様たちはコンビニじゃ嫌だとがっかりしていた。

日の出山の裏をキャンプ場方面に下る。日の出山の裏と言えば,私の子供の頃は気味の悪いうっそうとした林で,防空壕の跡とも噂される謎のコンクリート構造物があったりしたが,今ではすっかり木も切られて,さわやかな公園になっている。

東明スーパー跡の前で道道に出た。

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