何の縁故もないのであるが,三陸は,私にとって特別な場所であった。もともと完全な山派で,海のまちにはなじみがないのに,三陸は特別だった。宮古には10回以上行っただろう。陸前高田は今日で4回目かと思う。
震災がきっかけで知ったことであるが,三陸は両親の新婚旅行の地であったという。フェリーで八戸に上陸し,宮古で宿泊。その後,仙台までのどこかでもう1泊したという。そんなことからも,この場所には運命的なものを感じざるを得ない。
しかし,いまはそんな個人的な感傷はどうでもよい。
吉田貞次郎村長 | 大正15年十勝岳爆発による泥流被害の状況 |
広範囲に及ぶ東日本大震災の被災地の中で,陸前高田は市街地の中心部が壊滅的な被害を受けたという点で,やはり象徴的な場所である。今回の旅行で陸前高田を訪れた理由はいくつかあるが,最も大きな理由は,吉田村長の教訓に倣ったということだった。
大正15年の十勝岳噴火による泥流は山津波とも言われ,規模の違いこそあれ,被害の様相としては今回の津波とほとんど同じだった。復興反対派による抵抗を押し切って,「石にかじりついてでも復興する」と誓った吉田貞次郎村長の偉業は,小説『泥流地帯』にも描かれ,知る人も少なくないと思う。
一方で,あまり知られていないことであるが,吉田村長がそこまでして復興にこだわったのは,ある復興の先例を見ていたからであった。
「三浦綾子さんを囲む会座談会速記録」より。和田松ヱ門町長(当時)談。 |
それは仙台の北にある鹿島台という町で,明治42年の大洪水のことと思うが,東北本線の車中から洪水被害の惨状を見たのが,その数年後に通ったとき,見事に復興していたのであった。
私の家も大正の泥流で水田が流され,私の生まれ育った家がいま跡形もないのは,昭和63年の十勝岳噴火を受けた道路整備事業ためで,これも間接的には十勝岳噴火の影響である。そしていま実家が建つ場所も,もし大正の噴火と同じ規模の泥流が発生すれば,流されてしまう場所に建っている。
その意味で,津波による被害は他人ごとではないのであるが,もし私たちがまた被災したとき,あの陸前高田が立ち直ったのだから我々も頑張れると言わせてもらいたい。だから陸前高田には立ち直ってほしいし,本格的な復興が始まる前の現状をしっかりと見ておきたいと思ったのである。
国道45号線の気仙大橋は橋げたが流されてしまったが,7月10日に仮橋が開通した。
川の対岸は気仙地区である。昭和30年に8町村が合併して陸前高田市が成立するまでは気仙町という独立した町だった。気仙というと気仙沼のイメージが強いが,本来気仙と呼ばれる地域の中心だったのがこの気仙町で,小京都的な古い街並みが残っていた。酔仙酒造やヤマセン醤油の八木澤商店もこの地区にあった。
しかし,被害は壊滅的で,残っているのは気仙小学校の白い校舎だけに見えた。
上流にかかる旧道の姉歯橋が残っていれば,気仙地区にも足を延ばしてみようと思ったが,橋はなさそうだったので対岸からの遠望にとどめて引き返した。
駅の南西に広がるもとの水田地帯。ここはもともと人の住む場所ではなかったようで,県立高田病院だけがぽつんと建っていたが,地震後は地盤が下がり,水が溜まったままになっていた。
国道沿いの花壇。もともと「フラワーロード陸前高田」として,18年前から植栽が行われていたという。この花壇には「希望の花いわて3.11プロジェクト」によって,11月3日にパンジーが植えられていた。
踏切の部分だけが残された大船渡線のレール。
再び市街中心部へ。消防本部の建物。
図書館と職員全員が亡くなったという市立博物館。
県立高田高校。津波は3階にまで達しており,生徒14名が死亡,生徒4名・教職員1名が行方不明になったという。
道を歩いていると,いろいろなところで手を合わせている人に出会った。正月で帰省してきた人たちだろうか。
とりあえず,どこかお寺でお参りをしようと思って,普門寺を目指して歩く。
7月1日に仮設店舗で営業を開始した食料品店「ナインマート」の看板。
ここからは太い道を外れて高台に上がってみる。
またもや生花店の仮設店舗を見かけた。
この後も,仮設店舗で営業している店をいくつか見かけたが,業種は生花店,食料品店,調剤薬局,理髪店のいずれかだった。
被災地で最初にできる店の一つが花屋さんだというのは,まったく意外なことであり,今回の旅行で最大の発見だったと言って過言ではない。
花というのは,実は食料や薬と並ぶ生活必需品だったのである。考えてみれば,花がどれだけ被災地の人たちの心を慰め,暮らしに潤いを与えたのかわからない。花の力はすごいと改めて思った。
高台に上がってもしばらくは津波の痕跡が消えなかったが,さらに登っていくと,のどかなりんご畑となった。
市街地から10分も歩けば,こんなにのどかな風景がある。
途中,犬の散歩につきあっている人,初詣に行くふうの家族連れなど,何人かとすれ違った。見知らぬ人に会うのは慣れているのか,カメラを提げた私にみんな愛想よく挨拶を交わしてくれた。
しかし,「あけましておめでとうございます」という人は誰もいなかった。みんな「おはようございます」と言った。
何の碑だろうと思ったら,開拓記念碑だった。この辺は戦後に入植が行われたそうだ。陸前高田は三陸沿岸にしては珍しく平野が広がり,古くから稲作が行われていたようだが,それだけに水田のできない高台の開拓は遅かったのかもしれない。
曹洞宗海岸山普門寺。門前の老杉は開山時に植えられたもので樹齢500年余りと言われる。
代門。
本堂。除夜の鐘突きが行われたような形跡はあったものの,初詣の人はいなかった。
静かに手を合わせ,広田湾を見下ろす境内にしばし腰を下ろし,ここで遅めの朝食とした。