今回の震災後に出された言論の中で,参考になると思ったものはほとんどなかったが,唯一読む価値があると思った本が,三弥井書店から復刊された山口弥一郎著『津波と村』だった。著者は同じ被害を繰り返さないためには高台に移転すべきであるという主張をしつつも,人はなぜもとの場所に戻ろうとするのか,明治29年と昭和8年の大津波の経過を丹念にたどっている。少部数の印刷だったのか,復刊後たちまち書店から消えてしまったのは惜しまれる。
この本が読み手に強い印象を与える理由の一つとして,著者が三陸沿岸を歩いて調査をしているということが挙げられる。当時は鉄道もなく歩くしかなかったわけだが,やはり被災地はレンタカーなどではなくて,歩かなければならないと思う。
陸前高田から,南の気仙沼に向かうか北の大船渡に向かうかは,どちらでもよいと思ったが,気仙沼に向かった場合,唐桑トンネルという国道の長くて狭いトンネルを通らなければならず,徒歩では危険を伴うので,北へ向かうことにした。これから,半日かけて大船渡まで歩こうと思う。
普門寺から,山腹の道を米崎町方面に向かう。県立高田病院は山の中に移動していた。路線バスも多くの系統が乗り入れていた。
仮設店舗の中でもっとも件数が多かったのが調剤薬局だった。
「ご支援ありがとうございました」という自治会名の看板。このような看板を何か所かで目にした。
米崎小学校のグラウンドに建てられた応急仮設住宅。第一中学校グラウンドに建てられた仮設住宅に次ぐ,市内第2の仮設住宅として昨年4月5日に着工,60戸が供用されている。仮設住宅はこのほか市内各所に建設され,53地区で建設戸数は2,168戸にのぼる。
米崎小仮設住宅集会所。
米崎保育園。昨年3月に新園舎が完成し,新園舎で卒園式を行う予定だったが,震災の影響で中止になったという。7月には「つながり・ぬくもりプロジェクト」によって屋根に太陽電池が設置されている。
米崎町の中心部を経て,りんご畑の広がるのどかな風景の中を行く。
市役所の近くにあったJA大船渡高田支店がこちらに移転していた。もとの建物は津波で全壊したが,支店長の避難判断が早かったため犠牲者はいなかったという。
再び津波の被災地へ。
こちらも中心部から移転した陸前高田民主商工会。
小友町,広田町に通じるバイパスは,アップルロードと名付けられていた。
大型スーパーのマイヤは,3月のオープンを目指して建設工事が進められていた。
広田湾漁業協同組合の小友支所・米崎支所。アップルロード沿いに仮設事務所を並べて置いていた。
アップルロードというだけあって,観光果樹園もいくつかあった。
理容店の手書き看板。ほかでも何か所かで床屋さんが仮設店舗で営業しているのを見た。生花店と並んで,理容店もまた復興時にいち早く立ち上がる業種のようだ。
バイパスでは面白くないので,脇道に入ったが,道はどんどん怪しくなってきた。しかし,かまわず進む。
再び舗装道路に出ると,何やらボランティア風の人たちが旗を持って待っていた。旗には"Run for peace"と書いてあった。
あとから調べてみると「陸前高田ラン・フォー・ピース−元日の箱根山を一緒に走ろう−」というイベントで,10時に米崎中学校を出発,箱根山までの4.2kmを市民や全国各地からの参加者とみんなで走るというものだった。
10時16分,トップランナーがやってきた。
一直線の坂をランナーたちがどんどん上ってくる。
Run for peaceとは,タイムを計らない,順位もつけないマラソン大会ということで,みんな晴れやかな表情でゆっくりと走っていた。
5年前にたくさんの市民がいた高田松原に今日は誰もいなくて寂しい思いがしていたが,思いがけなく素晴らしいイベントに出会って,嬉しくなった。
10時23分,トップの人が早くも折り返して戻ってきた。
後日のレポートによると,天候を考慮して当初予定していた箱根山までの往復コースを変更し,短縮した周回コースにしたのだという。参加人数はボランティア約80名と合わせて合計250名あまりだったとのこと。