北海観光節旅行記旅はオールデー・オールナイト

小友町

 

山があって,畑があって,たまに馬頭観音が道端に奉られていたりする。岩手の好きな風景だ。

岩手のどこが良いのかと問われたとき,北海道ではとっくの昔に人が住まなくなったところに,岩手県ではまだ人が住んでいることだと答えてきた。

それをデータで示してみたいと思って,こんな図を作ってみた。(この図であるが,仕事の関係から陸前高田の一部の人たちに伝わったらしく,ちょっとした反響があったと聞いた。どのように思われたのか詳しくは聞いていないが,私なりの解釈をここに書いておきたい)

陸前高田市と北海道の富良野市,士別市。いずれも現在の人口が約2万数千人で,複数の町村が合併してできた市であるという共通項を持つ。その旧町村別の100年間の人口の推移を示したのが上のグラフである。

富良野市,士別市では周辺部の過疎化が著しく,中心部への一極集中が著しいのに対し,陸前高田市では旧町村単位の地区人口が非常に安定して推移している。これは陸前高田に限らず,岩手県の多くの地域でも同じ状況であるはずで,このことが北海道から見た場合の岩手県の魅力につながっている思っている。

聞くところによると,陸前高田は平均年収がかなり低い地域だという。それにもかかわらず,津波が来る前は,豊かに,しかもプライドを持って暮らしていた。気仙大工が作ったという住宅は,全国どの地域の住宅よりも立派である。以前,陸前高田市内のある企業を訪ねたとき,その会社の専務さんが,陸前高田というのはそういう場所なのだと話してくれた。

収入が低くても豊かに暮らせたのはなぜかと考えると,各家である程度の自給が可能だったからだと思う。かつて一家がぎりぎり食べていけるだけの農地しか持たない農家を五反百姓と言ったが,それは北海道開拓で基本的規模とされた1軒当たりの農地面積の10分の1である。陸前高田では中心市街地の高田町を除けば,そんな小さな田畑を伴った家が今でも密度濃く散在している。そういう家では農業として採算を得るには厳しくても,自家で消費する分くらいは収穫をすることができた。山林が近くにあるので恐らく,燃料用の薪も比較的容易に調達することができただろう。冷害のあるこの地方では,大変苦労したには違いないが,何とか食べていくことはできた。そんな中で,結(ゆい)と呼ばれる,持ちつ持たれつの助け合い精神がまだ残っているという。

生活していくにはもちろん現金が必要だが,例えば農家の奥さんが工場のパートに出るなどして稼いだ。だから陸前高田には取り立てて大きな産業はないが,パートを雇う機械の下請け工場などはたくさんあった。半農半労というのはかつての僻村の代名詞であったが,半農的な暮らしを今に至るまで続けてきたのが,陸前高田,というか岩手県の大部分ではなかったかと思う。

その半農的な小規模農業は効率が悪いから大規模化せよ,というのが国の農業政策のようであるが,それは違うように思う。外貨が稼ぎにくくなった時代だからこそ,自給力を高めていく必要がある。いきなり自給自足は無理である。最近,半農半Xという言葉がはやっているが,半農はお金に頼らず自然の恵みと人間の知恵でやっていく部分,半Xは現金収入のことだと解釈している。そうだとすれば,最低限の半Xの部分を確保しながら,「半農」力をなるべく高めていくのが,これからの農村地域における方向性だと思う。

もう一度,上のグラフに戻ると,陸前高田で各地区の現在の人口が,近代化以前の100年前の人口とほぼ同じであるということは,その気になれば将来にわたって持続的に同じ数の人が住み続けることができるということである。これはすごいことではないか。

北海道の過疎化の惨状は著しいが,岩手県を見習えば,本来はもっとたくさんの人たちが北海道の各地域に持続的に住むことができるはずである。

 

坂を下って広田半島の付け根に入る。大船渡線の線路は残っていたが,津波をかぶったのであろう,波を打っていた。

ここはもと水田だった場所。地盤が下がったようで,海とつながってしまっていた。

小友町の旧国道を行く。

左:小友小学校,右:小友中学校。いちおう津波のことも考慮して高台に校舎を建てたのだろうが,津波はここまで登ってきたようである。昨年の5月22日,小友小学校のグランドを借りて行われた小友中学校の運動会は,周囲にがれきが残る中で開催された模様が大きく報道され,印象に残るものであった。

正面の山裾にJRの小友駅があったはずだが,跡形もない。正面の山の先が広田半島で,この先に広田町という漁業を中心とした一大集落がある。

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