小本行きのバスは,結構乗客があった。
浜街道とも呼ばれる国道45号線であるが,宮古からしばらくは山側を通っていて,津波の被災地は直接視界に入らない。
しかし宮古駅から30分ほどで田老トンネルを抜けると,バスはいよいよ独特の赤茶色をした被災地の中に進んで行った。
田老駅の一つ先の小林停留所にてバスを降りた。
(2004.8.2撮影)
田老は2004年8月に,宮古・浄土ヶ浜からの観光船で訪れたことがある。
(2004.8.2撮影)
その時にも印象的だった防潮堤。海面からの高さは10mあるという。
田老は明治29年と昭和8年の三陸地震で,最も大きな津波の被害を出した地区である。小林地区から長内川の河口に向かって延びる防潮堤は,昭和8年の大地震直後から建設が始まり,昭和33年に完成。昭和35年のチリ地震による大津波では被害を皆無にとどめている。
その後,海側にもう1本の大防潮堤が築かれ,世界的にも注目される津波防災の町となったが,今回の大津波は2つの防潮堤を乗り越えて,市街地を壊滅させた。それでも,人的被害は過去の田老における被害や今回の他の地域の被害と比べるとかなり少なく,防潮堤は一定の役割を果たしたのだろう。防潮堤があることの過信によって一部の住民の避難が遅れたという報道よりもむしろ,これだけの防潮堤がありながら,多くの住民が高台に避難して助かったという事実に感動を覚える。
(2004.8.2撮影) | (2013.1.2撮影) |
国道沿いの商店街は全部なくなっていた。田老地区は2005年6月に宮古市と合併するまで田老町役場が所在していた市街地である。このような湾頭低地で外洋に正対して市街地を形成している例は,三陸沿岸であってもそんなにはない。過去の地震のときだって,さすがにここにはもう住めないと思っただろうが,その市街地の規模の大きさゆえに高台移転は実現せず,現地復興が繰り返されてきたのだという。
うがった見方をすれば,津波という災害が起こり続ける限り,田老の町もなくならないのではないかと思うが,それが全体から見て損失なのか,意味あることなのかは難しい問題である。自分の問題としてみれば意味あることだと思いたい。
三陸鉄道の田老駅はホームが高い場所にあるが,線路の上にまで津波が達したという。自転車置き場は屋根がなくなっていた。
駅舎の田老観光センター。この1月から解体工事が始まるという。
(2004.8.2撮影) | (2013.1.2撮影) |
駅舎の内装は全部なくなり,一部が自転車置き場として使われていた。
宮古からやってきた列車。宮古〜田老間は大地震から間もない2011年3月20日に運転を再開している。何もかもが流された中で,列車の運行はどれだけ地域の人たちを元気づけただろう。
やってきたのは,「てをつな号」というラッピング車両だった。2012年4月1日から1年間の期間限定で運行されている。
車内は座席の50%程度が埋まっており,ほとんどが観光客に見えた。田老の市街は車窓からもよく見え,乗客は身を乗り出して見ていた。
ほとんどの建物が跡形もなくなった中にあって,震災前から建っているとみられる建物もいくつか残っていた。防潮堤がいくらかは津波の勢いを弱めてくれたのだろう。
14分で小本駅到着。この先,田野畑駅までの線路が依然不通となっており,バスに乗り換えとなる。
小本駅は無事だった。小本温泉はどうなっただろう。
列車の乗客はほぼ全員バスに乗り換えた。
小本地区の共同仮設店舗「みらいにむけて商店街」。2011年9月にオープンしている。
国道はこの区間,かなり高いところを走っている。
このようなかなり険しい道を下って,バスは終点田野畑駅に向かう。