連絡バスに乗って約30分で田野畑駅に着いた。
鉄道が不通となっている小本〜田野畑間は営業キロで10.5km,普通列車で所要11分の区間であった。途中の島越駅付近の被害が大きいらしいが,2014年4月の営業再開を目指して復旧工事が進められている。
田野畑駅から平井賀漁港方面を見る。津波は駅の直下まで達したという。
田野畑駅は外壁に賑やかな絵が描かれ,内部も活気があった。被災した商店が被災後に入居したのだという。
三閉伊一揆発頭村という幟があった。今年は一揆から160年になるという。
サッパ船は震災の年から運行を再開している。すべてがなくなった机浜番屋群も再生が始まっている。しかし,これらの震災前の姿を私は知らない。トンネルばかりの鉄路ではなく,いつかじっくりと三陸沿岸を歩いて旅しようと思いながら,結局果たせなかったのは惜しまれる。
映画のセットのようなきっぷ売り場。ここでも青森までのきっぷは買えなかった。
窓口には早稲田大学駅伝学生運営部のたすきが掲げてあった。ちょうど,待合室のテレビでは箱根駅伝をやっていた。
2両目には指定席の「こたつ列車」が連結されていた。連絡バスから乗り換えた人たちの半分ぐらいは,こたつ列車に乗っていたように見えた。鉄道ファンのようには見えなかったが,よく調べて来るものだ。
田野畑〜久慈間35.4kmは,昨年4月1日に運行を再開している。
普代村の沢漁港。景色のよい箇所では,線路上で列車が一時停止してくれた。
同じく普代村の堀内漁港。普代村は漁港施設が大きな被害を受けたものの,人的被害は死者行方不明者1名のみにとどまっている。
夫婦岩のしめ縄は,津波でも切れずに残ったという。
安家川の河口にはサケのふ化場があり,たくさんのサケが遡上しているのが見えた。
景勝地での一時停止は結局3回あった。さらに,こたつ列車でのイベントのため,ひととき車内の照明が落とされた。先頭車にもウォーウォーと唸り声が聞こえてきた。
野田玉川駅と陸中野田駅の間には,がれきの処理施設があった。
防潮堤を越えて野田村市街地に入る。この村でも38名の犠牲者が出ている。
14時28分,定刻で久慈駅に到着。国鉄チャイムで乗り換えの案内があった。
広々としたJR久慈駅の待合室。