北海観光節旅行記白鬚神社と沖縄・東北

高那旅館

 

730交差点。国道390号の起点であり,本土復帰後の1978年7月30日に,左側通行への移行が無事完了したことを祈念して命名された。

離島ターミナルへと向かう。

今回結局お世話になることはなかったバスターミナル。

 

門松やしめ縄の風習は,本土と同じくあるようだ。

離島ターミナル。八重山の各島に行く船がここから出ている。ただし,フェリーは別のターミナルとなる。

船を待っていると,旅館から電話があった。港まで迎えに来てくれるという。

石垣17:30発→竹富17:40着 安栄観光 竹富島航路

 

予想に反して,最終便の船内はがら空きだった。テレビでは,大相撲この一年をやっていた。

港にはコンテナがたくさん見えた。離島といっても,利尻や礼文とは格が違う。

港を出ると,船はスピードを上げた。海面を蹴って進んでいるようで,こんな乗り心地は初めてだ。何か国境をゆく船のような,乗ってはいけないものに乗ってしまったような気がした。

わずかに10分で,竹富島に到着。

島の空気を存分に吸う暇もなく車に乗せられるのは,まったく大きなお世話だが,旅館にも都合があるのだろうから,甘んじてお礼を言って乗せてもらう。

本日の宿,高那旅館は,司馬遼太郎が『街道をゆく 沖縄・先島への道』で泊まっている宿である。1974年のことである。旅館までの道について,両側が密林の小道と書かれてあったが,意外に開放的な広い道だった。

しかし,やがて集落に入ると,石垣に囲われた小道となった。

高那旅館到着。竹富島では最も早くから旅館を営んでいた老舗である。

甘いハイビスカスのお茶をいただき,宿帳に記入した。

18時半から食堂で夕食。

 

素材はよくわからないが,土地のものが盛りだくさんなのだろう。ゆっくりと味わっていただく。

一人旅は,私だけだった。ただ,部屋の中央に向かって配席してくれたので,ほかのお客さんの様子もわかった。家族づれが2組いて,幸せそうだった。それから女性2人旅がいた。顔が見えている方は,ブログを愛読しているコラムニストによく似ていたが,恐らく別人だろう。

部屋に戻って,新聞を読み比べてみた。そして驚いた。読売新聞と琉球新報のあまりの論調の違いにである。保守系の読売新聞と地元紙では,違う報じ方をしているだろうと思ってはいたが,想像を絶する違いである。

一面のほか,本来テレビ欄の最終面,総合面,社会面の見開き全面を使って,これから戦争でも始まるのではないかという勢いで,知事の承認に対する批判を一方的にまくし立てているのである。

しかし,それでありながら,掲載されていた沖縄県内全市町村長のコメントを読むと,過半数とまでは行かなくても,知事の決断を支持している首長がそれなりにいた。首長の意見は少なくとも一定数の民意を反映しているはずである。

これは一体どういうことなのだろうか。

そして,「八重山毎日新聞」を読んでみると,今度は俄然批判の勢いは弱まり,石垣市の市長が知事の判断を支持していることもあってか,両論併記の姿勢に見えた。同じ沖縄県でも,国境地帯の八重山では,防衛に対する考え方がまた全然異なるのだろう。

こうなると,「沖縄タイムス」や「八重山日報」も全部買って,読み比べをしてみればよかったと後悔した(後日調べたところによれば,沖縄タイムスは琉球新報とそう変わらない報道をしたと思われる。八重山日報は4紙の中でも特異な保守的論調であるとされ,どのように報じていたのか気になるところである)。

 

八重山いえどもけっこう寒い。ロビーには電気ストーブが置いてあった。昨日は西表島の大原で12.5℃の最低気温を記録したという。北海道では外気温が概ね10℃を下回ると暖房を入れる。それは沖縄でも同じだと聞いたことがあったが,建物にまったく断熱性がないだけに外気温が15℃くらいでもかなり寒く感じた。

部屋のエアコンは暖房にはならないようだったので,早々に布団をかぶって寝た。

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