10時ちょうど,バスは双葉町に入った。町域のほとんどが帰還困難区域に指定されている。
脇道のゲートには,警備員が張り付いていた。
帰還困難区域に関しては基本的に除染は行われておらず,国道沿いにも地震で壊れたままの建物が放置されていた。
町域に占める帰還困難区域の割合という意味では,最も甚大な被害を受けている双葉町であるが,ごく一部に避難指示解除準備区域となっているエリアがあり,復興計画はそのエリアを核として描かれているようである。まさに一縷の望みのように見える。
災害というのは,たいてい過去の事例を調べれば,どう復旧,復興していけばいいのか全部答えが書かれているものであるが,双葉町の場合はまったく前例がないところから復興を始めなければならない状況である。何の力にもなれないのであるが,これからもときどきは気にして見てみたいと思う。
双葉町は5分ほどで通り過ぎ,浪江町に入った。ここで帰還困難区域を抜け出した。
浪江町も町域の過半が帰還困難区域に指定されているが,事故時の風向きの関係から,町の主要部が帰還困難区域の指定を逃れており,雰囲気はいくぶん明るくなった。
結婚式場の駐車場に置かれた除染作業事務所。除染も大きな効果があるところは大方終わっているようで,これからどこまでやるべきかというのはいろいろな意見があるだろう。
ハウスの並ぶ農園も現れた。
立派な役場庁舎だが,現在役場機能は二本松市に置いている。
ローソンは帰還困難区域を抜けた後,最初の店舗で,2014年8月に営業を再開,立ち入り制限時間の関係から7時〜18時の営業で日曜定休となっている。
今度は5分で南相馬市に入った。北海道でも上富良野,中富良野,富良野のように10分で移動できる市町村もあるが,1時間くらいかかる場合も珍しくない。それに比べると,やはり本州は市町村が込み合っている。もっとも,町村合併が進んでいないのは,原発が関係しているのかもしれない。
南相馬市は,原町市,小高町,鹿島町が合併して2006年に成立した新しい市である。
今度は津波浸水区間に入った。南相馬市では津波による死者,行方不明者は1000人を超え,県内では最大の人的被害となっている。
南相馬市の中でも小高区のこのあたりは津波の被害に加え,放射線量に基づく避難指示も解除されていない。2016年4月の避難指示解除が目標とされているが,復興はまだまだこれからという感じだ。
10分ほど走って福島第1原発の半径20km圏内を抜けると,避難指示も解け,モデル住宅が現れるなど,一挙に活気が出てきた。
店も普通に営業している。このあたりの福島第1原発の30km圏内は,震災直後に屋内退避指示が出されたが,避難指示が出されたことはない。ただこれは風向きの影響で,さらに遠く離れた内陸の飯館村では,まだ全村で避難指示が出されたままである。
新しい住宅もどんどん建っている。
10時34分,定刻より15分ほど早く列車代行バスは原ノ町駅に着いた。到着時には車掌から乗り換えの案内があった。深刻なエリアを通過したが,雰囲気的にはとても良いバスであった。
久しぶりとなる原ノ町駅。もとの原町市の中心市街で,南相馬市の市役所が所在している。市としては唯一,中心部が福島第1原発の30km圏内に含まれ,大地震から4日後の15日に至って屋内退避指示が出されたときには生活物資が届かなくなるなど混乱を極めたという。
乗り換え列車の発車まで1時間半ほどあるので,少し町を歩いてみる。
不通となっている原ノ町駅以南の区間。市内の小高駅までは2016年の春までにも開通の見込みとなっている。
仮設住宅に住んでいる人たちもまだまだ多い模様。
道の駅南相馬。
たまたま今日まで開催されていた「ブッダのことばとインドの風景〜今を生き抜くために」写真展を見学。
写真右手は南相馬市ふるさと回帰支援センターで,農家民泊や震災の話を聞く体験にも応じている。最近公共施設でも人員削減が進む中で,休日にも関わらずこうして3人ものスタッフが詰めているのは,復興の地ならではの活気を感じる。
お食事処,さくら亭。11時をまわったばかりだというのに,食堂は賑やかだった。ラーメンを食べたいわけではなかったが,当店おすすめの一品に「タンメン」「みそタンメン」とあったので頼んでしまった。
ほかのお客さんの頼んだものを見ると,天丼も豪華だったし,しょうが焼き定食もおいしそうだった。
観光客よりも,作業員や警備員風の人達が多かった。セルフサービスだが,厨房の奥様方はとても快活である。みんなで復興を頑張っていこうという気概を感じ,嬉しく思った。
物産館は,もち,野菜,くだもの,パンなど充実していた。たねは宇都宮農園のものを扱っていた。
道の駅の前を通る国道は,除染作業のダンプが激しく行き交っていた。警察の輸送車は,窓の金網越しに,疲労困憊した警察官達の姿が見えた。本当に大変なことだ。