石勝線

オサワ(信) おさわ 信号場
勇払郡むかわ町穂別長和
昭和56年10月1日開業
標高243m
2線
南千歳より55.7キロ
楓より7.0キロ

●楓→オサワ(信)の車窓

楓を出るとまたすぐトンネルに入る。登川トンネル延長5700m。石勝線は新夕張から占冠までほとんどがトンネルで,車窓は面白くないといわれるが,そのようなことはない。トンネルの間のわずかな明かり部分からは,石勝線の開通により初めて見ることができるようになった,北海道の最奥地の風景が展開する。
トンネルを抜けると橋梁から周囲を見渡せるが,熊が出そうな山奥である。山は深いが,原生林ではなく,かなり伐採が入っている。皆伐されたわけではないので,広葉樹も残って紅葉がきれいだが,幹の太い木は切り尽くされている。北海道にはどんな山奥であっても,原生林はないといってよい。

●オサワ信号場

山奥のそのまた山奥にある信号場で,周囲に人家はまったくない。恐らく現在の道路事情からすると北海道で最も山奥にある信号場で,容易に訪れることはできない。アプローチの林道は一般車両通行止めとなっており,車窓から見る限りかなり荒れた道である。こんなところでも当初は旅客駅として計画された。石勝線も計画当初は道央と道東の短絡よりも,沿線の木材,鉱物など資源輸送の意味合いが強かったためかもしれない。

ここから数km南の長和地区では下のような素晴らしい風景に出会える。

奥穂別八幡宮
明治38年の創設で昭和2年に現在地に移転した。祠は小さいが高い並木に囲まれた参道は大変情緒がある。毎年9月15日に大祭が行われ,きちんと手入れされているのが素晴らしい。
長和小学校・中学校跡
長和小学校は明治40年開設。往時には新登川にも分校ができたが,中学校は昭和43年,小学校は同51年廃校。昭和35年に落成した立派な木造校舎は牧舎として使用されており,グランドの片隅に記念碑が残る。

なおオサワは漢字で長和と書く。室蘭本線に同じく長和と書いてナガワと読む駅があるので,こちらはカタカナになっている。長和は奥穂別,上穂別とも言われた穂別町の最奥部で,明治38年に最初の8戸が入地している。

集落の中心地は信号場よりも数km南にあった。地図で見ると,ただでさえ山奥の穂別から穂別川をさかのぼること20数kmというすごいところだが,この長和にしても山一つ越えた福山にしても,鵡川を上って入植した者は皆無で,皆紅葉山から楓峠を越え稲里を経由して入植している。しかし,紅葉山から入ったにしても長和から紅葉山までは8里(32km)余りの険路で,日用品の調達すらままならない状況であった。

入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに食料が尽きて村に引き返した。

これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。

すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。

●見どころ

下車できない

(信)楓 北海道駅前観光案内所 (信)東オサワ