1. ハリギリの大木へ
●2012年3月24日(土)
8:00 道の駅「自然体感しむかっぷ」集合 オリエンテーション
昨年の鬼峠フォーラムは,東日本大震災の本震が起こった翌日に開催された。被害の状況もまだほとんど伝わってこない中でオリエンテーションが開催されたが,津波の規模からして大変なことになったという想像はついた。しかし,原子力発電所がめちゃめちゃに壊れるということは想像できないことだった。
あれから1年,いろいろなことがあった。ともあれ,今日こうしてまた集まることができた。鬼峠フォーラムは,その年によってメンバーがけっこう変わるが,今回は昨年の顔触れとかなり重なっているように見えた。参加者それぞれに今年こそ鬼峠を越えたいという気持ちとともに,昨年のあの時,この場所に居合わせた意味を,もう一度ここに集って確認したいという思いがあったのではないだろうか。
峠越えの参加者は,占冠村11名,富良野市4名,上富良野町3名,南富良野町2名,札幌市,旭川市,釧路市,日高町,仁木町,真狩村各1名の計26人だった。
今年は,6回目にして初めて参加者全員で初代鬼峠を越える。馬車も通った2代目の鬼峠と比べると,初代鬼峠はかなり険しい道のりである。細谷隊長から地形図と天気図を使って今日の行程の説明があった。幸い,今年はまだ雪が多く残っており,天気のほうも比較的穏やかなようである。しかし,状況によっては引き返すこともありうるとのことであった。
ニニウ生まれの会田さん。昭和10年生まれの会田さんにとっても,初代鬼峠は先代,先々代の時代の道。話には聞いたことがあったというが,この期に及んで初めて越えることになるとは,想像していなかったことだろう。
8時35分,道の駅を出発。
峠の入り口までは約2kmある。鬼峠フォーラムが始まって最初の3回は,峠の入り口まで役場のバスで送っていただいていたが,2010年以降は道の駅から歩くことにしている。どうせだったら昔の人たちと同じように歩いて行こうということで,自然とそうなったのである。
上川南部森林管理署占冠合同森林事務所の前を通過。この建物は鬼峠の時代からあったという。金山営林署の仁々宇担当区の事務所もこの建物の中に入っていた。2代目鬼峠は国有林の中を通っているので,ニニウに行くには営林署に入林届を出す必要があった。当時この入林届は厳格に扱われていたようで,ニニウに出入りする人たちのほぼ全員を仁々宇担当区で把握できていたという。いわば,ニニウへの関所だったわけだ。
ニニウ方面へと道道をてくてく歩く。列は乱れることなく,歩道を整然と連なって歩いていく。やはり,伝説の初代鬼峠を初めて全員で越えるということで,参加者にも緊張感が漂っているようである。
鵡川にかかる青巌橋にて,会田さんから渡し場の説明を受ける。1954年7月に橋が架かるまで,ニニウとの往来には必ずここで渡し舟に乗る必要があった。渡し守は明治以来一貫して遠藤藤吉氏が務めており,橋のたもとに家があった。
ニニウの住民にとっては,担当区の事務所よりもむしろ,この渡し場が関所だった。妻に隠れてこっそり酒を飲みに出てここで発見された話や,渡舟賃がなくて決死で川を渡った話が残されている(「占冠村史」p.511)。
舟は木造で,ワイヤーをたぐって進むタイプだった。向こうに舟があるときは「おーい」と叫んで舟を呼んだという。渡舟賃は現在の貨幣価値でいうと200〜300円程度だったようである。
道東道の夕張〜占冠間が開通するまで,この道路は国道274号と道東道の占冠ICを結ぶ短絡路として利用され,頻繁に車が行き交っていたが,今日はまったく車が通らない。巨額を投じた赤岩トンネルも,本当に4年間のためだけにつくられたようなものだ。
道の駅を出て20分で2代目鬼峠入り口に到着。簡単な説明を受け,さらに道道を進む。
初代鬼峠入り口。ここでスノーシューを装着。
スノーシューといっても,西洋式,和式,アイヌ式とさまざま。
9時21分,出発。
出発から10分ほどで小休止。今日はガイドツアーではないが,ベテランの参加者のアドバイスで,スノーシューの装着具合を確認したり,重ね着の調整をする。
オオワシが飛んでいく。
途中,ところどころで特徴のある木を観察。
サルオガセを手に,これはみそ汁の具に良いですよと山本さん。危うく信じてしまいそうになった参加者もいた。
出発して1時間15分,ダケカンバの巨木を通過。
さらに5分でハリギリの大木に到着。
ここで15分ほど休憩した。