2. 金山峠旧道
12時半過ぎ,村のバスで金山駅前を出発。5分ほど走ったところで,左に深い沢(
1963(昭和38)年刊行の『占冠村史』には,金山峠の里標について次のように書かれている。
金山峠から占冠中央まで里程標があった。石狩から胆振へ(空知郡から勇払郡に)峠を越す旅人はこの里程標をどんなにたよりにしたかわからない。金山に下車して左に曲りわずかの丘を越してパンケヤーラ川の流域に出,この流れをのぼると次第に急坂になるが,この登り口に一里標があった。(中略)開拓時代テクテク歩いた時代や駄馬を連ねて輸送をした時に重要な意味のあった里程標も今は影も形もなくなった。またその意味もなくなった。幾度かの道路改修で里程もずっと変わってしまっている。
さて,一里標跡を過ぎれば,いよいよ峠に差し掛かる。
昭和35(1960)年の『南富良野村史』刊行にあたり,当時北海道大学附属図書館長だった高倉新一郎博士は,祝辞の中で次のような印象的な内容を述べている。
(前略)車窓から見るこの村は,凡そ退屈な,わびしい山村の連続であった。開拓者達はこんなところに止らずに,石狩平野からまっしぐらに十勝平野に進んだに相違なかった。
ところが,終戦の直後だったと思う。私は或る機会から沙流川を遡って日高村に入り,金山に抜けることが出来,そこで想像もしなかったこの辺の深さを知った。そこには,私のように平原と都市に育ったものが想像もし得なかった猟と砂金掘と杣夫の世界があったのである。川々の至る所に砂金掘の話と跡があった。山々は原始林に被われて,至るところに伐木小屋と炭焼小屋を見た。金山,鹿越,落合。私はこの山麓を舞台に,猟をし,砂金をあさり,木を杣った人々を思った。
我々もまた,先ほど砂金掘りの話や,昭和40年代まで馬が郵便物を運んでいたという話を聞いて,何かはかり知れなく深い山村の世界に紛れ込んだような錯覚に陥っていたが,いよいよこれから金山峠の旧道を越えるのである。
金山峠越え(旧道をスノーシューでたどる)
国道の駐車場でバスを降り,スノーシューを装着する。
細谷隊長から説明を受ける。
12時55分出発。しばらくは,国道に沿って歩く。
意外なところで,左に入った。ごく短い区間だが,旧道が残っているという。
たしかに旧道の趣がある。
いま歩いているのは,下の旧版地形図で418.31mの水準点が置かれている付近である。
ここで,金山峠の歴史を簡単に振り返っておく。
北海道のほぼ中央部に位置し,降った雨を太平洋と日本海に分ける金山峠は,古くからの交通路であった。しかし道は一つではなく,金山,鹿越,落合や占冠,トマム,落合を拠点として,網の目状にルートが存在したようである。このことについては,あらためて書きたい。
現在の金山峠の原型となる道は,1908(明治41)年,金山から日高に通ずる殖民道路として測量がなされ,1910(明治43)年5月に開通を見たのが最初である。この道路は,『南富良野村史』に,「十梨別から峠下へ越した砂金掘のルートとペンケヤーラ川上流に寄った通路の中間につくられたもので,五万分の一地形の図を見ればすぐに判る様に,馬鹿曲りは相当無理な地形のところを無理にのぼっているのである」と書かれているように,自然発生的な道ではなかった。
1923(大正12)年,三国横断バスが金山〜日高・仁世宇間で運行を開始したが,このときはまだトラックで,荷物を積むと馬力が足りずに峠は越せない状況であった。1928(昭和3)年,拓殖費予算により旭川土現が改良工事を実施し,自動車が楽に通行できるようになった。その後,平取までの改良工事が完成するとともに,準地方費道浦河旭川線から,地方費道に昇格した。
戦後は,1951(昭和26)年からの3か年で金山峠の大改修が施工され,1953(昭和28)年,二級国道237号旭川浦河線に指定されている。当時の金山峠の標高は517メートルで,最小曲線半径が8.0メートル,最急勾配が6%と,依然として「馬鹿曲り」と称される難路に変わりはなかった。
1966年(昭和46)年11月,峠の頂上に金山トンネルが開通し,ここに長年の難所が解消された。
5万分の1地形図「石狩金山」(1919測図,1948資料修正) | 米軍撮影空中写真(1948) |
5万分の1地形図「石狩金山」(1984修正測量) | 国土地理院撮影空中写真(1977) |
左上の旧版地形図は1919(大正8)年の測図であり,草創期の金山峠の線形を表していると考えられる。1948(昭和23)年撮影の空中写真は,1928(昭和3)年の改修後の姿である。旧版地形図とはかなり線形が異なって見えるが,当時の地形図は完全に正確ではなく,基本的には明治以来の道を踏襲しているものと思われる。なお,同じ年代に撮影された空中写真で,鬼峠はほとんど確認することができず,難路だったとはいえ金山峠は鬼峠とはまったく異なる規格の道路だったと考えられる。
下の地形図は,現行の5万分の1地形図であるが,峠を挟んだ水準点付近を結ぶ区間の旧道が破線で表記されている。1977(昭和52)年撮影の空中写真は,旧道の姿がまだはっきり確認できるが,454メートルの水準点付近では,現道と旧道が何度か交差しながら別ルートを取っていることがわかる。
この金山峠旧道の存在は,さほど古い話ではなく,広く知られている。しかし,妙なことに,文献やインターネット上で,金山峠の旧道を越えたという報告がほとんどなかった。今回,私たちは初めての金山峠の旧道越えをするということで,細谷隊長によって地形図や空中写真をもとにした事前の検証が行われたが,それぞれ重ね合わせようとしても,旧版地形図や空中写真にはゆがみがあって,ぴたりとは重なり合わず,現地で雪の上から微妙な起伏や植生を見ながらの困難な作業になったようである。
454メートル水準点付近を行く。現国道は大カーブを描くが,旧道はそのやや内側を屈曲して登っていたようである。
20分ほど歩き,本格的な峠越えを前に小休止。細谷隊長から,これまで歩いた道筋について説明を受ける。
ここで,アクシデント発生。スノーシューのベルトが切れてしまった参加者がいた。
そうするとニニウの会田さんが,ヒモを持っているからと差し出してくれた。南富良野の山名さんは針金を提供してくれた。山に入るときには針金と工具を必ず持ち歩くのだという。さらに驚いたことには,金山の大野さんが替えのベルトを持っており,手際よく切れたベルトにつないで,あっという間に修理をしてしまった。
山に入り慣れている人は,いろいろな対策をしているものだと深い感銘を受けた。
13時20分,国道を横断し,いよいよ馬鹿曲りの真髄ともいえる区間に進む。インターネット上には,入り口が国道の改良工事でふさがれてしまっているというような情報もあったが,実に明瞭に入り口が残っていた。
ここからは,現在の国道とまったく別ルートを取っており,山道歩きらしくなる。
旧峠は現在の金山峠より約60メートル標高が高い。天空に向かって,どんどんと上っていく。『占冠村史』には。こう書かれている。
日没後にバスで越す場合はるかな峯の空にピカリと光るものが見える。月か稲妻と思うとたちまち赤色と変わっているのは先に峠を登っていく自動車のライトと尾燈なのだから,雲の彼方にのぼる様なものである。
新道の切土上の大カーブを行く。『占冠村史』に,
狩勝峠の鉄道の曲りは有名だがそれにも負けない場所でS字になりU字になって同じところをうねりながら登って行く時,今通ってきた道がすぐ眼下の谷底が見える状態である。
とあるとのは,このあたりではないかという。
熊もいるようだ。相当高いところまで,爪痕がついていた。
落ちてくれば危険な,枯れ木の上の雪の塊。
木が覆いかぶさってはいるが,もともとは立派な道だったということがわかる。難路だったとはいえ,道内屈指の林業地帯だった占冠を結んだ旧国道である。
13時45分,峠に到着した。峠は,はっきりそれとわかる切り通しになっていた。
古いコンクリートの擁壁も確認できた。
旧道の現役時代に通ったことがあるという参加者も2,3人いたが,この切り通しの峠の雰囲気はよく覚えているという。
峠で15分ほどの休憩を取った。
ゾンテ棒を突き刺してみると,積雪は170センチメートルもあった。3月も終わりだというのに,さすがは峠である。