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3. 峠下茶屋

14時ちょうど,峠歩きを再開。ここから鵡川の流域に入る。

流域をもとに1969(明治2)年に置かれた旧国郡では,占冠は胆振国勇払郡,南富良野は石狩国空知郡に属す。1997(明治30)年,郡役所を統合して置かれた支庁でも,占冠は室蘭支庁(のちの胆振支庁),南富良野は空知支庁に属したが,それぞれ支庁所在地からの交通が著しく不便という理由で,占冠は1906(明治39)年に,南富良野(当時富良野村)は1899(明治32)年に,上川支庁に編入されている。

こうして,空知大滝と鬼峠という交通の難所の存在によって,それぞれ下流域から切り離されてしまった占冠と富良野であるが,当初から互いの結びつきは強く,占冠が上川支庁に編入されると同時に,下富良野村(現富良野市)の戸長役場管轄下に入っている。さらに,1919(大正8)年,南富良野と占冠は,ともに二級町村制を施行するが(それまでの戸長役場は議会すらなかった。二級町村になると一応議会が置かれたが,首長は官選のままだった),同時に南富良野と占冠で組合役場を設置し,議員を両村から3名ずつ出すという状況が1932(昭和7)年まで続いたのである。

「最新調査北海道精図」(小島大盛堂,1926)

地図は,ちょうど組合村時代の1926(大正15)年の刊行であるが,辺富内と金山を結ぶ鉄道予定線上に占冠の名が見える。+に○の記号は,駅逓を示している。その占冠と金山の間に,まったく地名が書かれていない謎の三角地帯が存在しているが,その空白エリアこそ実は占冠村であり,相次ぐ管轄の変更に,地図も正確を期せなかったものと思われる。

 

峠を越すと様相は変わって,急斜面にへばりつくような心もとない道筋となり,ところどころ崩落しかかっている部分もあった。

  

途中には,はっとするようなエゾマツやトドマツの大木があり,参加者も歩みを止めて見ていた。

 

クマゲラが深い穴を開けた木があった。

中にいる虫を食べるのに,穴を開けたのではないかという。クマゲラは,アイヌ名ではチプタチカップカムイと言い,「舟を彫る神様」という意味だという。丸木舟と同じ彫り方をするからだそうだが,獲った虫から得られるエネルギーは,穴を開けるのに使ったエネルギーに見合うものだのだろうかという疑問も参加者から出ていた。

頂上から40分少々で,国道が見えてきた。

 

これらの道路標識は,旧道時代のものではないか。現在の国道からも注意していれば見えるのだが,まったく気が付かなかった。

峠越えの終わりに,会田さんや旧道を通ったことのある参加者から当時の話や感想を聞いた。会田さんは激しい砂利道なので,車のタイヤがパンクしないかいつも心配していたとのことだった。

わずか2km足らずの旧道歩きだったが,なかなかに中身の濃い体験だった。

国道に合流する手前で,少し大きな沢を渡る。今日出発して以来の大きな沢だ。ここだけは頑丈な橋が架かっていたので,何気なく渡ろうとすると,誰かが「通行料をいただきます」と言った。

実際に,かつてここは通行料を取った場所だった。明治の末頃のこと,部落の人たちが除雪や氷橋をかけたりして冬の交通を確保し,村の許可を得て通行料を取ったという。

国道に出て,峠下茶屋跡までしばらく歩く。

峠の茶屋跡で茶を飲む

15時12分,峠下茶屋跡到着。

ここに石碑があることが多くの参加者が知っている。しかし,すっぽりと雪で埋まってしまい,場所の見当がつかない。この辺だろうというところを,とにかく手分けして掘ってみる。

碑が現れた。

峠下茶屋跡の碑。

金山峠に道がついてすぐの頃から,この場所には茶屋があった。『占冠村史』には次のように紹介されている。

明治43年に上富良野の丸一木工場山本逸太郎の父がこの附近から「栓」の角材を出した事があった。その時の造材部の飯場であった某が初めて茶屋を開いたので,名がわからないから字占冠の古老たちは「ぢいさんばあさん茶屋」と言っている。これが初代であった。

茶屋はもう一軒の系統があり,「峠の茶屋のおにばば」で有名だった。

字占冠では脚気はなく入地後「マラリヤ」にかかるものが多かった。森林地帯で湿気も多くマラリヤを媒介する蚊が発見されたこともあった。
「オコリ」と言われていたが峠下の茶屋の「鬼婆」の顔を見ると「オコリ」が落ちるという有名な話がある。(中略)よく子供をしかりつけたが「ほうずき」をぬすんだ子供をしかった時,その子供が「オニババ」という名をつけてしまった。
(中略)双珠別のある事件で検事が来村した時「おにばゝの茶屋に憩いて渋茶のむ」という句をのこしたことから更に有名になった。
(中略)雄弁で押しが強いのがこの名になったが「マラリヤ」もこの婆さんにはにげ出すというところに開拓時代の人々の直観的な表現がある。名とは逆に精神は「オニババ」でなく茶屋も人気があり,多くの人々に親しまれた。障子の影からうたうのをきくと名調子だったという
『ミリオン道路地図帖北海道編』(東京地図出版,1966)

『占冠村史』刊行の1963(昭和38)年時点で,茶屋は既に廃業していたとのことだが,1966(昭和41)年刊行の道路地図には,「峠下」の地名とともに,茶屋と思われる建物の印が見える。

さて,石碑も掘り出され,雪でテーブルを作って,お茶会が始まった。

わらび餅を用意してくださったのは,西村さん。この企画にあたって,古い人たちに茶屋の思い出を聞いたところ,金山で聞いたのと同じように,温まる鍋焼きうどんなどを食べたとのことだったが,やはり今日は甘いものをみんなで食べたいと思って,わらび餅を作ってきたそうだ。今でいえば「峠下カフェ」なのだから,パウンドケーキだって良かったじゃないかという声も聞こえたが,わらび餅なのが渋いところ。

お茶は,アイヌのハーブティーで,プシネプイ(ホオの実),ノヤ(ヨモギ),オタシプシプ(スギナ)の3種類。これは細谷さんが集めた材料を,旭川市博物館の学芸員の方の協力でお茶にしていただいたものだそうである。

わらび餅を取り分けるのに懐紙が配られ,しばしお茶を楽しんだ。

なお,この場で道新の取材を受け,翌日の朝刊に記事が載った。

15時55分,村のバスで,交流会場の湯の沢温泉に向かう。


4. 鬼峠交流会