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新入小学校

自然のためにできること〜自然を破壊する人間を育てたのも教育。しからば,自然を守り育てる人間をつくるのも教育。
まずは学校で,地球をここまで傷つけてきた人文,社会,自然科学の基礎を学び,それらを正しい目的に用いなければならない。勉強の究極の目的はそこにあるのではないか。

昭和51年以降林間学校として利用されてきたが,ここ数年は使われていないようである。内部はあまり改造もされていなく,閉校当時の面影が随所に見られる。グランドには鉄棒やブランコも残っている。こういう廃校を見るだけで涙が出てくる人もいるだろう。

●新入小学校・中学校の歩み

明治44年 私立新入教育所として開校,校舎新築
大正2年 公立占冠中央教育所所属新入特別教授場として認可(公立になったということ)
大正6年 学校全焼
昭和20年 新入国民学校として独立
昭和24年 占冠村立占冠中学校新入分校を併置
昭和27年 占冠村立新入中学校として独立
昭和50年 新入小学校・中学校閉校,64年の歴史に幕
昭和51年 学校跡地を林間学校として開設

ここに新入小学校・中学校の最終年度となった昭和49年度の「新入小・中学校経営案」がある。それによれば,児童生徒数は小学8名,中学4名。教員は小中各3名。小学校は1,2年と3〜6年の2クラス,中学校は1〜3年1クラスの複式学級を採用している。僻地4級。環境は
「占冠村中央より鵡川沿いの崖を削った道道を11.8kmの所に開けた盆地で,地味は肥えていないが,村内一気候の良い所である。個数18戸と極めて少ないが,教育公務員・営林署関係・郵政と給与生活者が多い。住民は純朴であるが,教育の関心は高い方でないが,協力的である。降雨時の落石,融雪期の雪崩は有名である。そのため学校給食も雪崩時は1か月ぐらい中止になる。」
とある。
 この文から,ニニウの最後の頃は学校があるために学校があったようなもので,学校が廃校になると一気に戸数が減少したことが予想される。また,昭和49年に至っても冬季に1か月も交通不能となり,郵便も新聞も届かなく,保存食が必要な暮らしをしていたことは特筆に値する。

新入小・中学校校舎・校庭施設平面図

新入小学校に関するエピソードをひとつ占冠村史から引用しよう。

 学大旭川分校を卒業した川村一(25)先生が占冠の新入小学校に赴任して,最初の1か月の体験が昭和31年5月17日の北海道新聞によって報道されたとき,非常な注目を集めた。今これによって教壇から見た新入の状態を見ると,
4月20日雪の降りしきる4里の鬼峠をようやくのことで越えた晩,部落22戸をあげての歓迎会があった。初めて迎える有資格の若い先生ということで,父兄の喜びもひとしおだったが,会場の教室にただよう胸苦しい空気がたまらないほどつらかった。
酒といえばこれは同時に焼酎であり,野菜に恵まれないこの部落が常食にしているアイヌネギと重なったのがこの臭気,先生一つと差し出されれば断ることもできない。
     ×
電気はない。もちろんラジオもない。乗るものはない。店はない。文化と名のつくものは何もない。だから当たり前のこともかみくだいて江戸時代の人にでも教えるようにしなければ徹底しない。
     ×
生徒の体格が悪いのも部落の貧困のせいだ。川村先生の受け持つ1年から3年までだけではなく,4年生以上も隣の中学生も同じこと。身体検査の結果では小・中学生合わせて35名中全国の標準に達しているものは校長先生の娘1人という悲しさ。お昼の弁当を見ればその理由が読める。
     ×
部落はじまって以来入学試験もだれも体験したことのないところだから勉強に対する観念が全く変わっている。勉強が勉強以外に目的のない純真な子供たちだからよほど興味をひかなければついて来ない。
     ×
しかしこんな恵まれぬ辺地の生活にも希望の灯はある。それは子供の世界にも大人の世界にもみにくい虚栄の影が一つもないという事だ。ある放課後半里もあるPT会長の家にお使いを頼んだ。ところがおいそれとだれも行ってくれると言わない,そこで一番年上の子にもう一度たのんだらにっこりうなづいて出かけてくれた。
ところが帰ってきたのを見ると十余名の子供たちはみんな一緒だった。そして仲良く同じ道を帰っていくではないか。みんな心の美しい子どもたちばかりだと感心した。
貧しい生活の中にいながら少しのひがみもない,それは青年達を見ても同じなのだ。周囲の山々や鵡川のせせらぎがきれいにすんでいるように忘れられた辺地の人々の心も少しもあかに染まっていない。

 新任の先生の戸惑いが率直に表現されていておもしろいが,勉強のとらえ方が少し違うように思う。私は都会には都会の勉強の仕方,山には山の勉強の仕方があると思う。

 都会の子供の勉強は教科書の暗記で,それが自然界の何に対応しているかが実感できない。わかりやすい例でいえば教科書に出てくる生き物は都会の子供はただひたすら暗記するしかないが,山の子供はすぐそこに実物があるのである。また,都会の核家族の子供は戦争のことなど教科書に書いてある事実でしかないが,じいさんばあさんと暮している農家の子供は,戦争のことを生の体験として語ってくれるそば人がいるのである。都会の子供は塾なども充実している結果,平均的に優等生が多くなり良い高校,大学にも入れるが,その知識は地に足がついたものではないので将来役に立つものとはならない。たいして,山の子供は実際の生活に根ざした素晴らしい知恵を持っている。学問というものは自然から出てきたものであるから,勉強も自然から学ぶのが最も効率的なはずで,へき僻地校から難関大学に入った人を私は何人も知っている。ただ,山の中から高校や大学に行くことはお金の面で大変なことである。

●地名「ニニウ」について

 これまでカタカナで「ニニウ」と書いてきたが,「新入」という当て字が出てきたので,ニニウという地名について整理しておこう。

ニニウはもちろんアイヌ語で発音はniniu,「樹木の多い所」の意である。一般にはニニウと書かれ行政区画上の正式名称は占冠村字ニニウである。営林署などでは仁々宇の字をあてている。学校名は新入と書き,今も残る校門に新入の字がしっかりと刻まれている。「新しく入る」希望に燃えた当て字だが,明治44年の開校で十分に古い歴史がある。新入という当て字からきているのか,ニニュウ,あるいはニニユウと書かれることもある。確かにニニュウのほうが言いやすい。占冠(しむかっぷ)を漢字の読み方にあわせて「しめかっぷ」と読むのと同じ理屈であろう。ニニウ自然の国関係ではニニュウにさらにローマ字をあてNI・NEWとしている。NEWが新入の新にも重なっておもしろいと思うが,結局,アイヌ語本来の「ニニウ」がもっとも素直な書き方だといえそうである。
「仁々宇」の例

「NI・NEW」の例

●新入浅野小学校について

 これまでまったく触れなかったが,ニニウにはクローム鉱山・石綿鉱山があった。学校は昭和19年の開校。しかしこれはニニウ部落から遠く離れたパンケニニウ上流の山麓で,部落内部に影響を強く与えることはなかったようである。鉱山には朝鮮半島の人々が約100人,日本人が200人もいた。社宅は27戸もあり,学校も村立の新入小学校よりも設備がよかったが,終戦とともに閉校した。

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