ニニウと私 2004年
●2004年1月15日 北海道遺産第2回選定候補応募一覧が発表される
前年6月から12月にかけて応募を受け付けていた北海道遺産第2回選定候補が発表された。応募総数9107件,実数1294件で1回目の募集よりやや低調だったが,私はニニウを含め10件を応募した。ニニウももう廃屋がいくらも残っておらず,当初考えていたような自然・産業・生活文化の総合的な学習の場として活用を図るには少し自然に還りすぎているが,ともかく応募するということが大事である。しかしニニウはまたもや「自然」のカテゴリに分類されてしまった。
●2004年2月3日 赤岩トンネル工事費増が問題に
この日道議会建設常任委員会において,赤岩トンネルの工事費が当初見込みより60億円多い147億円に膨らむことが明らかとなった。その後,2002年度末の段階で工事費が13億円膨らむことがわかったにもかかわらず本来必要な知事承認の手続きをとっていなかったことも判明。2003年秋の段階では「継続事業」と評価されていたが,これをいったん白紙に戻すこととし,2月28日公共事業評価専門委員会に諮られた。委員からは高速道路全通後は交通量が激減するため事業を休止すべきとの意見が出されたが,道は夕張新得線の工事に既に75億円を投じており,休止の場合は業者側への違約金などで13億円の追加支出が必要になるため道民の批判が強まりかねないと主張。3月15日再度の委員会で事業継続が了承された。
このトンネルはたしかに道東道の占冠IC以東が先行開通した場合に重要な道路となるし,占冠市街の通過交通量も増えて村の発展にも寄与するものである。工事自体による経済効果も甚大だろう。しかしもっと長いスパンで見た場合,高速道路全通後はほとんど無用になるし,わずか10年程度しか続かない経済効果のために,赤岩青巌峡を潰してしまってよいのだろうかと思うのである。
占冠中央市街地にある赤岩トンネル建設ステーション |
●2004年3月12日 石勝線楓駅廃止される
利用者の減少が著しく,停まる列車は1日1本,しかも日曜運休という極限状態に陥っていた楓駅がついに営業終了となった。列車での到達が困難なことから鉄道ファンには人気があり,営業終了日には臨時列車が運行されて数百人のファンが別れを惜しんだ。
楓駅に最後の臨時列車が走ったあと,帯広行きの特急に乗って占冠駅で下車する人が何人かいた。皆,占冠発楓行きの乗車券を購入するためである。「こんなことでもなければ占冠駅では降りない」と言っていた。
こんなことでもなければ……というのは寂しいことだ。占冠というのは決して何もないわけではない。駅前にはこの規模の村にしては意外なほど充実した物産館やレストランがあるし,少し歩けば温泉や道の駅もある。何より占冠の駅そのものが降り立つだけでさわやかに気持ちになれる雰囲気を持っている。
なのに占冠駅はなぜこれほど無名なのだろうか。JR北海道の車内情報誌や一日散歩ガイドブックにも掲載されることがないし,鉄道雑誌でも紹介されたのを見たことがない。
●2004年3月25日 北海道遺産第2回選定の第1次候補が発表される
1294件の候補がこの段階で352件に絞られ,ニニウは落選した。北海道遺産選定専門委員会の7人の先生方のうち,宮内令子先生は北海タイムス社の記者時代に「占冠の女」の連載を担当しており,当時ニニウに唯一残っていた農家を取材している。また委員長の越野武先生は私の卒業設計「ニニウ博物館」の発表会の際,「やりたいことはよくわかる」と好意的な評価をくださった。このようにニニウをよく知っている先生方の審査に諮られての落選であるから,やむを得ない結果だとは思う。
●2004年8月12日 トンネル工事でニニウに住んでいた方からメールが届く
昭和46年から47年までトンネル工事のため赴任した父親とともにニニウに住んでいたという方からメールが来た。この方は当時小学校2年生で新入小中学校に通っていたという。やはりそのころは既存農家の子弟よりも工事関係者の子ども達のほうが多かったそうだ。私のサイトを見て学校が廃校になっていることを知り,8月9日に名古屋からはるばるニニウを訪れたとのこと。
当時住んでいたのはパンケニニウ川沿いで,現場事務所と宿舎が隣接してあったとのこと。その立派さから「占冠ホテル」と呼ばれた鉄建公団の占冠鉄道建設所とはまた別の場所のようである。お父様は恐らく第1ニニウトンネルか第3ニニウトンネルの工事に就いていたのだろう。
●2004年8月17日 ニニウ訪問
ふるさと林道鬼峠線は早くも舗装がぼろぼろになっていた。
鬼峠から清風山信号場を見る。高速道路は信号場内を直角に横切ることになる。トンネル坑口付近では伐採作業が始まっているようだった。
赤岩青巌峡。2年前から大きな変化はない。
ニニウでは学校裏の慶徳橋ゲートが閉鎖され,福山側からのアクセスは不可。そのためサイクリングターミナルもキャンプ場も今年は通年休業である。札幌側からアクセスできなければやはりお客さんも来ないのだろう。
古さを感じさせない重厚な造りのサイクリングターミナルも,2年続けて休館すると「廃墟」という雰囲気に染まりつつあって痛々しい。 | 昨年オープンした「遊々の森」の看板が新しくできていた。 | 一昨年リニューアルしたキャンプ場もほとんど利用されることなく眠っている。 |
誰もいない芝生には無数の蝶が舞っていた。
ニニウの森へ上ってみようとしたとき,衝撃的な光景を見てしまった。いよいよニニウでも高速道路の工事が始まったのである。杭の位置からこの場所に高速道路が通ることはわかっていたが,本当にキャンプ場のすぐそばである。蛍の乱舞,満天の星,耳が痛くなるほどの静寂,あの素晴らしいニニウの夜はもう2度と訪れないのかもしれない。
札幌方面を見る。 | キャンプ場管理棟からニニウの森へ続く道。サイクリングロードが横切るすぐ手前を高速道路が横断する。 | 占冠方面を見る。右前方,森の中へ入っていく道がニニウの森・遊々の森への散策路。 |
高速道路が道道を横断する箇所でも伐採作業が始まっていた。突き当たりの山が鬼峠を貫くトンネルの坑口になるのだろう。
またも衝撃的な光景が。道道東側の2軒の廃屋のうち,南側の廃屋が倒壊していた。小学校の文集などがたくさん残っていた廃屋である。これでニニウの歴史がまた一つ闇の中に消えた。
ハーブ園・フラワー園 | 学童農園 | 西側南の廃屋跡 |
ニニウ自然の国の農園,廃屋まわりの畑もついに耕作を放棄したようである。
●2004年11月16日 掲示板にガンビさんの書き込み
工事でニニウに住んでいたという方に続き,今度はニニウ生まれのガンビさんから掲示板に書き込みがあった。ガンビさんのおじいさんが鉱山関係の仕事をされていて,昭和29年穂別の岩美(ガンビ)鉱山からニニウに移り住んだという。ニニウにいたのは昭和45年までで,このときガンビさんは3歳だったのでガンビさん自身ニニウの記憶はあまりないという。しかしお母さんからの話としていろいろ興味深いエピソードを聞くことができた。以下にそのいくつかを紹介しよう。
鬼峠
占冠に買い出しに行くのに,鬼峠を通って3時間かかった。貧乏だったから馬も持てず,ニニウでいちばんの金持ちだった人の所の馬を借りたが,道が悪いので馬も足をとられてまともに歩けなかった。帰りは荷物の重さも加わりよく転けてしまった。
ニニウの家
ニニウの家は6畳二間の狭い家で知り合いから1万5千円くらい借りて建てた。当時は,ランプの生活で自給自足だった。水道は,裏の川から引いた。最初の頃は風呂もなく,知り合いの家に入りに行っていた。
昭和37年の台風
この時は本当にすごく,家の裏のペンケニニウ川が溢れかえった。その後,上富良野から自衛隊が来て,崩れた崖や橋を直してくれた。
阿部旅館(ニニウ駅逓)
店も兼ねて経営してたのか買い物に行った記憶がある。泊まり客は,山に仕事に来てる人達が多かったという。
川村一先生
川村はじめ先生は,ガンビさんのお母さんが小学校3〜4年生(昭和31〜32年度)の時の担任だった。いつも,にやけていて非常に気持ちの悪い先生だった。(川村はじめ先生はニニウ博物館のニニウ小学校の項に登場している)
学校での食事
ニニウに住んでた頃は,とにかく貧しかったので昼食は,ばあちゃんが作ってくれたお弁当。アルミの弁当箱に,いつも変わり映えのしないメニューで,白ご飯,漬け物がメイン。時々,魚のほっけが入っていた。学校側から牛乳が出てたので,それがとても楽しみだった。寒い日は,ストーブの上に大きなヤカンが置いてあり,その中に牛乳が温められてて,美味しかった。弁当の中身は他の家の子どももほとんど似たり寄ったりだった。
ガンビさんとはこの後も何度かメールをやりとりし,ニニウに住んでいたときの家もつき止めることができた。(ドラマ「鬼峠」にガンビさんの家が出ている)