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ニニウと私 2008年

●新年を迎えて

2008年は,灯油やガソリンの価格が急激に高騰する中で迎えることとなった。石油がいつかなくなるということは,わかりきっていたことだったが,こうして現実に価格に現れてきたのはやはりショックだった。

北海道の人たちは灯油とガソリンに頼り切った暮らしをしている。正月に帰省した上富良野の市街は,灯が消えたように静まりかえっていた。初売りの賑わいなど,もはや遠い過去の夢の中の出来事のように思われた。正月は家にこもりきりか,あるいは,昼間はスーパーか病院で暖を採り,家では布団にくるまって寝るだけというような悲惨な現実を目にし,すっかり憂鬱な気分になってしまった。


戦後を象徴する建物だった旭川駅前のアサヒビルもついに閉鎖。一つの時代が終わった。

●2008.1.6 『大地の冬のなかまたち』上映会

 

この日,富良野図書館で,「新春図書館のお正月映画」として,『大地の冬のなかまたち』が上映された。昭和47年に制作された映画で,叔父が主人公の友人役で出演していることから,存在は知っていたが,鑑賞する機会はこれまでなかった。

昭和47年というと,富良野がまだ純粋な農村だった頃である。映画の中盤から,涙が出てきて止まらなかった。たった30年ちょっと前のことなのに,今とは全然違う,暖かみのある美しい農村が,生き生きと描かれていたのである。

こうしたふるさとの美しい風景は,日本の近代化に伴って,全国至る所で消えていったものと思う。その時代の人たちは,ふるさとの景色が消えるというということに,どうやって耐えたきたのであろうか。それが目下私が感じている最大の疑問である。

●2年目の鬼峠越えに向けて

正月の帰省は,いろいろなことを考えさせられる機会となった。札幌の寮に戻ると,昨年の鬼峠フォーラムでお世話になった占冠の人たちから年賀状が届いていた。年賀状からは,何となく占冠が元気そうだということが感じられた。占冠では,昨年10月21日に道東道のトマム-十勝清水間が部分開通し,村内を通る車が激増しているという。

占冠,ニニウというところは,本当のふるさとではなくても,心のふるさとのように感じるところである。昨年末に山本さんから「鬼峠フォーラムですが,ぜひ今年もやりたいと思っています。時期や内容は全く未定ですが,小さな物でも継続したいなとみんなで話しています」とメールをいただいていたこともあり,正月の帰省でふるさとへの思いを一段と強くした私は,できることから何かをやってみようと思い立った。

まずは,1月19日,地域の事情に通じているH新聞社富良野支局のK記者を訪ねた。彼にはぜひ今年も鬼峠越えをやるようにと勧められた。さっそく翌日占冠の山本さんへメールしたところ,偶然にもNHKから取材のアポがあったところとのことで,鬼峠関連の活動が「北海道中ひざくりげ」で取り上げられることになり,短い期間の中で準備が始まった。詳しいことは,鬼峠ミーティング開催報告に書いた。

●2008.2.10-11 鬼峠ミーティング

交流会 初代鬼峠越え

まさか鬼峠フォーラムの2回目があるとは思っていなかったのだが,また鬼峠といって声をかけたら,30余名が集まったのだから,鬼峠やニニウの人を引きつける力というのはすごいものがある。初日は昭和30年代の8ミリフィルムの上映,ニニウ食の再現と,充実した内容になった。2日目は,80年近く前に廃道になった初代の鬼峠を有志で越えた。道の痕跡はほとんど残っていなかったが,大正時代の地図と地形を丁寧に見比べて歩くことによって,昔峠を通った人と心が通じ合ったような気がした。

●2008.2.23 トマムリゾートを訪ねる

レストラン・ニニヌプリ(名前はニニウに由来する) アイスビレッジ

この日は,昨年来の鬼峠越えでお世話になっている細谷さんと西村さんを頼って,トマムリゾートを訪ねた。5時間あまり滞在し,いろいろなお話しをうかがうことができた。

この後まもなくして,2人はトマムリゾートを退職された。トマムリゾートの草創期からのメンバーであり,スキーだけではなく,来訪者と自然との関わりの仕組みを作り上げてきた2人である。私もようやく知り合えたところだったので寂しいが,トマムリゾートはこれからも来訪者や村の人にとって価値ある場所であり続けると信じたい。

●2008.2.24 追分駅にて

トマムからの帰途,大雪のためスーパーとかちは追分駅で運転抑止となり,結局車内で夜を越した。朝,NHK旭川局のKディレクターから携帯電話に連絡があった。この日の午後から「北海道中ひざくりげ」のナレーションを吹き込むとのことで,ニニウに関する事実関係の確認だった。その際わかったのだが,Kディレクターは,私とニニウの関わりにおいて忘れられない人の部活の後輩とのことだった。これもまた不思議な縁である。

●2008.4.1 旭川へ転勤

札幌勤務は意外と早く,3年で終えることとなった。あまり住みたくはなかった札幌も,もう二度と住むことはないと思うと,寂しさを感じた。旭川での勤務は自らの希望であった。ふるさとに近い旭川で定職を持って働けるというのは何といっても幸せなことである。ニニウは時間的には遠くなったが,同じ上川管内に引っ越したことで,気持ち的には近くなった。

●2008.8.9 第3回あさひかわサイエンス・カフェ

 

たまたま職場でポスターを見て,このイベントを知った。テーマは「『泥流地帯』の世界〜火山学と文学の出会い」だった。1926年の十勝岳爆発からもう82年が経つというのに,いまだにいろいろなところで爆発がらみのイベントが行われているのはどうしてなのだろうか。

午前は神楽公民館で北大名誉教授の岡田弘先生のお話があった。質問用紙が配られたので,私は先の疑問を書いてみた。岡田先生は,上富良野では被災体験が文化に昇華(消化?)されているからだと答えてくださった。先生とは爆発80周年の追悼式でお会いして以来だったが,私のことを良く憶えてくださっていて,1989年の噴火のさなかに行われた講演会で私が聴講していたこと,その後,大学で講義を受けてレポートに当時のことを書いたことなど皆の前で紹介していただいて恐縮した。学者として本当に尊敬できる先生である。

午後からは三浦綾子記念文学館に会場を移し,小説『泥流地帯』について小泉学芸員のお話を聞いた。この日の参加者はサイエンス系の人が大半だったが,上富良野から郷土をさぐる会幹事長の中村さんが参加されていた。小泉学芸員は上富良野に住んでいたことがあって,中村さんは古くからのお知り合いなのだそうである。中村さんとは私は初めてだったが,私はよく存じ上げていたし,中村さんも鬼峠フォーラムの新聞記事で,私のことは見ていたそうである。

実は前々から三浦綾子記念文学館で見せてもらいたいと思っていた資料が2つあった。小泉学芸員が上富良野に縁のある方と聞いて,この日それをお願いしてみた。ニニウと私 2001年のページにも書いてあるが,2001年9月に開催された「泥流地帯展」で見た,曾祖父の弟が三浦綾子さんに宛てた書簡と,『富良野地方史』のニニウに関する記述である。資料が見つかれば後日連絡をいただけることになった。

●2008.8.30 旭川市図書館にて

占冠はいちおう上川支庁の管轄であり,札幌にはない情報が旭川にはある。この日はニニウに関する2つの文献を目当てに,旭川市図書館を訪ねた。

 

一つは旭川青年会議所の記念誌である。1950年に設立されたJC旭川では,スローガンの一つである「奉仕」の実践として,1955年より辺地教育助成運動を展開,パーティの収益金などによって上川管内の小学校へ小学館の学習雑誌を寄贈するなどの運動を始めた。そして,辺地をこの目で見,励まそうということで1957年7月,「上川管内の最も代表的な辺地校,占冠村のニニウ小学校」を訪れたのである。

記念誌にそのときの写真が掲載されていたのだが,驚いたことに,ニニウの学校の前にジープが何台も停まっているのである。当時は赤岩橋の開通前で,鬼峠を越えるしかニニウに行くすべがなかったはずである。その峠も,軽馬車が通るのがせいぜいで,役場の職員が選挙や検診で訪れるにも徒歩で行くしかなかったと聞いていた。ところが鬼峠を自動車が越えたことがあったのだ。

記念誌には「聞きしにまさる難行軍のすえ,たどりついた」と書かれており,「自動車が7台もきてびっくりしました。この部落には,こんなにたくさんの自動車が来たことはありません」という生徒の言葉が掲載されているので間違いなく事実のようである。

もう一つの文献は北海道学芸大学僻地教育研究所の「僻地教育研究」第7巻第1号に掲載されている,「占冠村ニニウの教育計画に関する研究」という論文である。これは既に入手していた榎本守恵先生の論文の詳細版である。学芸大の調査とJC旭川の訪問は同時期に行われているものの,直接の関係はないことがわかった。いずれにしても,鬼峠を越えて行くしかなかった頃のニニウの実態の詳細な記録として貴重なものである。

図書館から帰ってくると,掲示板にガンビさんの書き込みがあった。昨年の鬼峠越えの際,昔住んでいたニニウの家の跡に置いてきた石を,この夏探しに行ったのだという。

●2008.9.7 三浦綾子記念文学館にて

小泉学芸員から,資料が見つかったとの連絡があり,三浦綾子記念文学館を再訪した。手紙のほうは割とすぐに見つかったが,『富良野地方史』のほうは,かなり探していただいてようやく三浦綾子さんのご自宅から見つかったとのことだった。

『富良野地方史』の361ページには,「わがニニウだけは賭博がないことを誇りとする」の箇所に,やはり間違いなく綾子さん自身の手でアンダーラインが引かれていた。

大正泥流では,酒も飲まない,博打も打たない勤勉な三重団体がいちばん大きな被害を受ける。普段の心がけがよければ神様は味方してくれると人は言うが,いちばん真面目で勤勉だった者が大きな被害に遭った。だとしたら神はなぜ災難を下したのか。苦難の意味を問う,ということが小説『泥流地帯』の最大のテーマとなっている。ところが,私も三重団体の子孫だが,三重団体が酒も飲まず,博打も打たなかったということをほかで読んだり聞いたりしたことはないのである(そうであったとは思いたいが)。これは推測に過ぎないが,綾子さんは『富良野地方史』でニニウという真面目で勤勉な部落があったことを知り,それを三重団体に重ね合わせて小説のテーマにしたのではないかと私は思う。

資料に赤いサインペンで傍線を引くのは綾子さんのやり方で,ほかに農業関係の記述にたくさんの線が引かれていた。綾子さんは農業の経験がないために,農をテーマにした『泥流地帯』を書くのを最初ためらわれたというが,それだけに農業に関する部分を多く参考にされたのだろう。

それにしても,何百ページもある中からニニウの部分を開いて展示してあったというのは何という偶然だろう。それとも,偶然ではなかったのかもしれない。小泉学芸員は占冠に住んでいたこともあるそうで,ニニウのことも知っていた。『富良野地方史』もたしかにそのページを開いて展示していた憶えがあるとのことだった。

●2008.9.26 文学散歩『泥流地帯』ゆかりの地を中心に

日新尋常小学校跡地 新入小学校の池

この日は,旭川市の三浦綾子記念文学館開館10周年記念事業として,小説『泥流地帯』ゆかりの地を巡るバスツアーが開催された。バスは望岳台を経由して上富良野に入り,まずは山深い日新尋常小学校跡地へ着いた。

学校は富良野川が流れる谷底にあり,十勝岳噴火の際には,校舎,教員住宅もろとも流されてしまった。『泥流地帯』の中では,噴火の前の出来事として,先生が結婚することになり,主人公の耕作ら卒業生がお祝いに先生の庭に池を掘るという場面がある。

「拓一は,ひょうたんの形の池を掘りたいと言っているが,耕作は,北海道の形をした池を掘ってやりたい。何でも,富良野には北海道の中心の標があるという。上富良野は富良野からそう遠くはない。おおざっぱに言って,上富良野も,北海道の中心に入ると耕作は思う。北海道の形の池は,中心地にふさわしいような気がする」

実は,北海道の形をした池は新入小学校の校庭にあり,現在も草むら中に残っている。北海道の形をした池は道内のいくつかの小学校にあったようだが,もしかすると三浦綾子さんが実際にニニウを訪れてこの池を見たのではないかという想像もしてみたくなる。

●2008年9月28日 十勝岳温泉凌雲閣にて

この日はJRのヘルシーウォーキングと十勝岳温泉の紅葉まつりがあって,ヘルシーウォーキングを終えた後,無料シャトルバスで十勝岳温泉凌雲閣まで上がった。露天風呂で偶然,占冠村のM主査にお会いした。2月の鬼峠ミーティング以来である。

お話を伺うと,明日は札幌学院大の研修生が鬼峠林道を散策するので,今朝下見のために鬼峠に登ってきたところだとのことで驚いた。また,今年2月に有志で越えた初代鬼峠だが,教育委員会では記録に残しておく必要があると考え,その翌週足跡を頼りに再び越えて地図にルートを落としたのだという。占冠の教員委員会もかなり熱心である。

来週の日曜には鬼峠を会場にノルディックウォーキングがあるとの情報も得,参加を約束した。

●2008年10月5日 鬼峠ノルディックウォーキングと占冠紅葉まつり

ノルディックウォーキングは次の要領で行われた。

9:30 開会式(農村公園)・開会式終了後送迎バスで出発地点へ移動
10:00頃 スタート,鬼峠越え
13:00頃 ゴール地点(鬼峠登り口)着・送迎バス乗車後,農村公園へ。到着後現地解散

農村公園での開会式 レクの森にて準備体操 鬼峠を越えて

スタート地点のレクの森まで行く道道が路線切り替えで通行止めになってしまったのでどうやって行くのかと思っていたら,なんとバスで一度鬼峠を越えて行くのだった。レクの森までなら川沿いに行っても難所は無いのに自動車だとわざわざ峠を越えなければ行けなくなったとは,何とも切ないことである。

ところで,レクの森には初代の森と2代目の森があったそうである。初めてニニウを訪れたときの記憶では,たしかレクの森の休憩所が道道から見えたと思っていたのが,いまは違う場所に建っているので不思議に思っていたが,やはり場所が移っていたのである。

紅葉まつり マルシェひまわり

13時過ぎ,農村公園に戻って紅葉まつりを見物した。何人かの方とお話しし,自然写真家の門間さんたちとご一緒して焼肉などをいただいた。ステージではトマムにいた西村さんが司会をされていて驚いた。今は占冠村の観光協会に勤務されているとのことである。

そして観光協会にいたKさんは,9月に道の駅のショッピングモールにおにぎり屋「マルシェひまわり」をオープンされていた。2月に鬼峠の頂上でいただいて皆が感激したおにぎりが,今度はお店に行けばいつでも味わえるというのだから,これは朗報である。

紅葉まつりが終わった後,ニニウを訪問した。

 

道東自動車道の工事は3年後の開通に向けて着々と進んでいる。高速道路はキャンプ場のすぐ裏を通り,高いところを通るJR石勝線のさらに上を高架橋で越えていく。この光景は既に9年前に想像できていたが,残念なのは今になって村の人たちから,こんなにキャンプ場に近いところを通るとは思っていなかったという声が聞かれることである。

道道は頻繁に通行止めになる崖っぷちの道が閉鎖され,鵡川を2度渡ってキャンプ場を通過するルートに切り替えられた。古くは新道の橋と同じ場所に吊り橋が2つ架かっていて,昭和37年の水害で両方とも流失した後,下流側の橋は復旧されることはなかったのだが,高速道路の工事に伴っていとも簡単に立派な橋ができてしまった。

しかしこの道道の路線切り替えは想定外だった。道道もまたキャンプ場を貫通しており,キャンプ場は周囲をぐるりと立派な道路に囲まれてしまった。サイクリングロードも新設の道道に接続するように付け替えられていたが,果たしてこのサイクリングロードが使われる日が再び来るのだろうか。

私にとってニニウでいちばん印象に残っているのがこの場所である。中学2年の林間学校のとき,吊り橋の手前でバスを降り,キャンプ道具を担いでこの道を歩いた。この場所は少し低くなっていてシダなどが繁茂しており,神聖な雰囲気があった。恐らくホタルもここで繁殖していたのではないか。この場所も道道の盛土で切り取られてしまった。

 

ニニウは何でもスケールが小さい。ただ今までは大きな構造物がなかったために,その小ささが美しさになっていたのだが,いろいろな構造物ができたために,小ささがみすぼらしさに感じらるようになってしまった。

学校とサイクリングターミナルは昨年,札幌の不動産業者に売却され,立ち入り禁止の看板が掲げられていた。校舎は道路の盛土が影響しているのか,排水不良で基礎の不動沈下が著しく,今にも倒壊しそうな状況である。不動産業者ではこれらの施設を再生して活用する壮大な計画を持っているらしいが,それまで校舎は持ちこたえるだろうか。

変わりゆくニニウだが,ニニウの本丸はペンケニニウ川の上流である。そこは神社も残っていて昔と何も変わっていないはずだ。ニニウの廃屋や学校が無くなっても神社だけは残していきたいという思いを強くした。

●2008年10月 EastSide018号

 

占冠の山本さんがエッセイを連載している「EastSide」誌の秋号が発売された。今回のテーマは”黄金の国−「万字」”だった。エッセイのしめくくりで,炭鉱で繁栄した構造物が朽ちていく様は「右肩上がりの思考しか持たない現代の日本人には我慢がならないものだろう」がそれはむしろ自然死のようにあたりまえのことであり,開拓時代の廃屋が数多くある村に住む者として「人の遺した物が自然に抱かれて還っていくことを受け入れていきたい」と語られていた。

ちょうど私は,知床の岩尾別で最後に残る開拓農家が保存されることになったというニュースを聞いて喜んでいたところでもあり,きついアンチテーゼを突きつけられたような気がした。

●2008年10月18日 近自然ワークショップinしむかっぷ打ち合わせ

10月12日,山本さんから近自然ワークショップの開催案内があった。近自然学をテーマとしたセミナーは北海道スローフード・フレンズ帯広などを中心として,道内各地で行われてきた。実は,何年か前から占冠で開催したいという話はあったそうだが,この数年来の山菜市や鬼峠フォーラムの活動を通じて,こういうイベントを受け入れる土壌ができてきたため開催に踏み切ったとのことである。また,先日M主査もおっしゃっていたが,近年,トマムリゾートを退職した人たちが別の仕事を持って村に定住し,彼らによって村の文化レベルが上がってきているのだという。トマムもいろいろ言う人がいるが,村に及ぼす文化的影響は大変大きいように思う。

18日にはワークショップに向けた打合せが役場の会議室で行われた。私にも案内があったので,とりあえず面白そうだと思って参加してみた。高校一つ分の人口しかいない小さな村において,商工会,観光協会,教育委員会などの関係者が集まって物事が決められていくプロセスは大変興味深く感じられた。

●2008年10月28日 トマムで島サミット開催のニュース

ワークショップを目前に控えたこの日,第5回日本・太平洋諸島フォーラム首脳会議(通称「太平洋・島サミット」)が来年5月22日〜23日,トマムで開催されることが報道された。

●11月2日(日) 近自然ワークショップinしむかっぷ

開催概要は次のとおりである。

11月2日(日)
●ワークショップ1 14:00〜15:30
 近自然学環境講座「心豊かな田舎の暮らし」
 場 所:占冠村コミニティプラザ会議室
 講 師:山脇正俊氏(スイス連邦工科大学・チューリッヒ州立総合大学講師・北海道工業大学客員教授)
●ワークショップ2 17:00〜18:00
 座談会(パネルディスカッション)「小さな村から見える事」
 パネラー:山脇正俊氏  スイス連邦工科大学・チューリッヒ州立総合大学講師
      小山内浩一氏  猿払村在住 村議会議員 猿払イトウの会会長
      安藤 誠氏  鶴居村在住 ネイチャーガイド ミュージシャン
      三浦康幸氏  占冠村在住 占冠村教育委員会
 コーディネーター:湯浅優子氏 新得町在住 酪農家 北海道スローフードフレンズ代表
 場 所:双民館
●ワークショップ3 18:30〜20:30
 懇親会「しむかっぷのエゾシカを愉しむ会」
 しむかっぷのエゾシカについて  紹介:山本敬介氏
 鹿猟について  森のかりうど 高橋勝美氏
 地域資源活用補助事業について  占冠村商工会会長 夏井忠之氏
 ふらのワインとエゾシカ肉のマリアージュ  ふらのワイン醸造係長 高橋克幸氏
 場 所:双民館
11月3日(祝)
●ワークショップ4 9:00〜10:00
 「二風谷(シシリムカ)のアイヌ文化」 お話:アイヌ彫刻師 高野繁廣氏
 場 所:二風谷 
●ワークショップ5 10:00〜11:30
 高野さんと巡る「二風谷アイヌ文化博物館」
●アイヌ料理のお弁当

※主催 占冠村公民館(WS1,2),北海道スローフードフレンズ(WS1〜4),占冠村観光協会(WS2,3),占冠村商工会(WS3)

山脇先生の講演。村民文化祭の行事としても位置づけられ,78名参加の満員盛況だった。

座談会 エゾシカを愉しむ会

ワークショップ2からは双民館に場所を移して開催。ここからは昨年来の鬼峠フォーラムのスタイルを踏襲している。

2次会は例によって研修室で深夜まで語り合った。終始話題となったのは「鹿」と「熊」で,実際に仕事で鹿や熊に携われている方を交えて,つっこんだ議論がなされた。

2日目は車を乗り合わせて二風谷に移動。アイヌ彫刻師・高野繁廣さんの解説を聞きながら博物館を見学した後,アイヌ料理のお弁当をいただいた。高野さんは,参加者の質問に対しわからないことははっきりと「わからない」と答えていたのが印象的だった。それは昨日の鹿肉を提供されていたハンターの高橋さんも同じだった。本職の人というのは推測で物を言うことはしないものだと思った。

●2008年12月2日 コンクリート不法投棄問題になる

この日,道東自動車道の占冠トンネル西工事現場で,盛土の下にコンクリート塊が埋められているのが見つかり,新聞で大きく報道された。このトンネルは占冠トンネルと名乗っているが,鬼峠の真下に掘られている。やはり何かが起こらずには済まないのが鬼峠なのだろうか。


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