ニニウと私 2009年
●2009.1.6 鬼の目覚め
毎年鬼峠を越えることになろうとは思っていなかったが,前年11月開催の「近自然ワークショップinしむかっぷ」の中で,今年もまた越えようという機運が生まれた。1月6日,日月社山本氏へ時期などを相談。翌日,返信があり,郷土資料館の整備,8ミリフィルムのDVD化の構想や,鵡川を通じて森から海への循環を考えていこうという動きがあることを知る。9日には村の観光協会西村氏より,一般の方から鬼峠の名の由来の問い合わせあったとの連絡があり,今年も鬼が目を覚ましたといったところである。
●2009.1.24 仙台の大叔母を訪ねる
このところ,鬼峠フォーラムや泥流地帯関連のイベントを通じて古老の話を聞く機会に恵まれているが,自分自身のことを振り返ってみると,過去のことをきちんと聞いたことがなかった。昨年9月に上富良野の吉田貞次郎村長次女・清野ていさんのお話を聞き,82年も前の十勝岳噴火のことが生の記憶として語られていたのに感動を覚えたが,考えてみれば,清野さんと同い年(1919年生まれ)の大叔母が仙台で健在なのである。
今のうちに話を聞いておきたいという気持ちと,いまさら……という気持ちの葛藤が半年くらい続いていたが,思い立ってこの日,大叔母を訪ねた。東北で勉学中の妹も同行した。大叔母は記憶もたしかに,大正泥流について知る限りのことを語ってくれた。10年前に死んだ祖父は私たちに過去のことをほとんど語らなかったが,すぐ下の妹だった大叔母にはいろいろなことを話していたらしい。大叔母もまた,自分の子供にはこんなに話したことはないと言っていたから,歴史は親から子へ,子から孫へ語り継がれるというのは案外幻想なのかもしれない。
●2009.3.14 鬼峠フォーラム2009開催
3回目となった鬼峠越えは,「鬼峠フォーラム」に名前を戻して開催された。詳細は鬼峠フォーラム2009開催報告に書いた。3月というのに雨で,峠の手前で引き返すことになったが,結果的には体力的に余裕を持ってニニウに向かうことができて良かった。バスで向かったニニウでは天候も回復し,ニニウ神社奉納相撲大会という新たな伝統も生まれた。
双民館に会場を移してのフォーラムでは,ニニウ生まれの会田さんのお話を聞いた。会田さんの住宅が,現在ニニウにただ一軒残る廃屋となったが,会田さんのふるさとへの思いが,家をここまで残してきたのだと思った。
●2009.3.29 旭川市博物科学館 第56回企画展「十勝岳噴火20年」見学
旭川市は十勝岳と直接的な関わりを持たないはずだが,3月14日から31日まで,1988〜89年の十勝岳噴火20周年を記念した企画展が開催された。三浦綾子記念文学館や上富良野町郷土をさぐる会から資料の提供を受け,なかなか力の入った展示だった。ニニウと泥流地帯を結びつける,三浦綾子記念文学館所蔵の「富良野地方史」も展示されていた。
また,ビデオモニターでは,1月23日〜24日に開催された「北海道火山防災サミット2008in十勝岳・十勝岳火山防災フォーラム」の様子を放映していた。この日私は仙台に行っていて参加できなかったのだが,地元のことながら,こうして過去の災害を語り継いでいこうとする取り組みには感心する。
●2009.4.22 太平洋・島サミットポスター原画コンテスト作品展
島サミットの開催まで1か月ほどとなり,開催地の占冠村のみならず,道内外で歓迎機運を盛り上げるための様々なイベントが行われていた。この日は道庁の道民ホールで開催されていた,太平洋・島サミットポスター原画コンテスト作品展を見学した。
●2009.4.29 十勝岳アートビュー開業
昨年11月に新聞で報道されて以来,物議を醸してきた深山峠の観覧車「十勝岳アートビュー」が,この日無事開業を迎えた。早速,開業初日に深山峠を訪ね,観覧車に乗ってみた。
観覧車の建設を問題視する意見は多かったが,思い入れのある建物が壊される,鉄道が廃線になる,ふるさとがダムに沈む,といったようなことに比べれば,観覧車ができるのいうのはむしろ夢のあることであり,観覧車を建てた町の建設会社の社長さんの,至極純粋なふるさとへの思いを知ったとき,できれば応援したいという気持ちになった。
インターネット上では,北海道には雄大な自然景観を求めているのであって,そこに観覧車は不要であるという意見が大勢を占めていたように思われる。北海道では自然にしか価値を認めないということの裏を返せば,自然の中で生活している人間の存在価値を認めていないということになる。これはニニウ博物館のテーマの根幹に関わることでもあるので,鬼峠フォーラム2009開催報告の最後で触れた。
都会の人たちはとにかく偉い。それが地方の人たちは面白くない。しかし,面白くなくても,違うことは違うのだと訴え続けることも地方の人たちの役割なのではないかと思う。
●2009.5.4 サイト名称を北海観光節に改称
ホームページを開設した動機は,ニニウに高速道路が通るのを知ったことだったということは何度も書いてきた。北海道観光大全というサイト名にしたのは,ホームページのアクセス数を多くすることで,ニニウのことをより多くの人に知ってもらいたいと思ったからだった。
ホームページを開設して10年目を迎え,ニニウについては,フォーラムが3度開催されるなど,ホームページを開設した当初の目的はかなり達成できたように思われた。そこで,情報が陳腐化してきたサイト内の観光関連情報を削除し,サイト名を「北海観光節」に改称した。ホームページは今後もできる範囲で地道に続けていきたいと思っている。
●2009.5.15 サミット開催6日前のトマム・占冠を訪ねる
16の国と地域の首脳が占冠で一堂に会すという歴史的なイベントが,村に何を及ぼすかを見ておきたいと思って,この日占冠を訪ねた。詳しいことは小さな旅行記太平洋・島サミットまであと6日に書いた。
占冠村ではイベントに浮かれることなく,外務省などからの要請に応じ冷静に対応することを,早い段階で方針としており,この段階では村はまだ落ち着いた雰囲気だった。
●2009.5.20 第5回太平洋・島サミット記念特別展示高砂淳二写真展
島サミット関連イベントは東京でも開催されていた。この日は5月20日から29日まで新宿のコニカミノルタプラザで開催された,高砂淳二写真展に立ち寄った。
●2009.5.22-23 第5回日本・太平洋諸島フォーラム首脳会議(太平洋・島サミット)開催
いよいよ島サミットの本番を迎えた。厳戒な警備が敷かれ報道で様子を知るのみだったが,夕食会の会場にはレストラン・ニニヌプリ,首脳の宿泊場所にはガレリア・タワースイートホテル,会議場にはホテルアルファ・トマム,首脳夫人を招待した茶会とファッションショーは中央のコミュニティプラザ,最後の共同記者会見はVIZスパハウスが会場となり,新聞,テレビで大きく報道された。
予算が限られている中で,既存の施設をフル活用しての開催となったが,村の人たちにとっては,普段見慣れた風景の中に各国の首脳たちがいるのを新聞などで見たとき,あらためて郷土への誇りを持つことができたのではないかと思う。
●2009.8.2 第35回占冠村ふるさと祭り訪問
占冠村ふるさと祭りを初めて訪れた。メインの目的は占冠音頭の踊りを見ることだった。雨で軒並み出し物が中止となる中,占冠音頭は私が無理にお願いしたからかどうかはわからないが,雨に打たれながら踊ってくれた。青巌太鼓はコミュニティプラザに会場を移して披露された。初めて見たが,大変立派な演奏で驚いた。相当練習しているのだろう。詳しいことは,近い将来,別途ページを作って紹介したい。
会場では太平洋・島サミットを記念したクイズ大会,サミット参加国の塩を使用したヤマベの塩焼きやローストビーフの提供も行われていた。
占冠音頭 | 青巌太鼓 |
ふるさと祭りはもともと,村を離れた人たちが年に1度村に戻ってふるさとの人たちと交流することを目的として始まったイベントだという。会場中央の大きなテントでは,札幌占冠会,富良野占冠会の人たちが楽しそうに食事をしていた。富良野からの往復のバスで,富良野占冠会の人たちと乗り合わせたことも思い出となった。
実行委員長挨拶 | 村長挨拶 |
●2009.8.29 第11回全道フットパスの集いinかみふらの
上富良野でフットパスの集いが開催された。会場は実家のすぐそばにある上富良野町公民館。隣の家に行くにも車で行くことが常識となっている北海道の田舎町で,著名な登山ルートでも何でもない道をただ歩くことが市民権を得たというのは,驚くべきことである。しかも,上富良野でフットパスに取り組んでいるのが,地場の建設会社の社長さんだということも嬉しいことである。
初日の講演会の内容もなかなか良いものだった。古街道研究家の宮田太郎氏からは,
・北海道でも明治以降だけではなく,もっと前からの歴史が古街道として眠っているはずである。
・古道は農家の裏山に行く道,古街道はエリアとエリアを結ぶ道。
・古街道は力のある道,埋まっていても気を発している。
・古街道をたどることにより歴史が再生される。
などのお話しがあった。鬼峠にも通じることだと思った。
続いて,松浦武四郎名誉館長高瀬英雄氏,上富良野在住の彫刻家・山谷圭司氏から,松浦武四郎が旭川から十勝に抜けたときの道筋をたどる活動について紹介があった。
講演会に引き続き開催された交流会では,地元の方々とお話しをさせていただいくことができ,充実した時間を過ごせた。
●2009.9.5-13 初めての海外旅行
ホームページリニューアル後もサイト名に「観光」の語を残したのは,旅行といえば海外旅行,観光といえば物見遊山の団体旅行しか思い浮かべない風潮に対し,ニニウのような私たちの足もとにある身近な土地をしっかりと見ることもまた観光のひとつの重要な要素であるということを言いたかったからである。
私自身,日本をまだいくらも見ておらず,海外に行くより先に,もっと日本をきちんと見たいという思いを強く持っていたが,仕事上の必要もあって,早いうちに一度海外を体験しておく必要があるとも思っていた。
9月5日成田空港を発ち,同日オランダ・スキポール空港到着。7日,空路ドイツ・ベルリンへ移動し,12日シュツットガルト空港よりフランス・シャルルドゴール空港経由で帰国。省エネルギー技術についての先進事例調査という目的は十分に果たし,オランダやドイツの文化についてもいろいろ学ぶことができた。これは一に,現地をコーディネートしていただいた方のおかげである。
しかし,海外を知ることはたしかに大事だと思うが,むやみに海外旅行に行く人よりもむしろ,ふるさとでひたむきに生活している人のほうが,生き方としては人の心を打つことがある。ニニウの記憶が現在まで語り継がれるようになったのは「占冠村史」を著した岸本翠月氏の功績が大きいと思うが,岸本氏は海外はもとより,道外にも渡ることのない人であった。そういう人であったからこそ,岸本氏の著作は私たちの心を打つのではないかと思う。むやみやたらに広い世界を知らないがゆえの鋭い感性を私は大事にしたいと思う。
ドイツ南部の農村風景
●2009.10.1 近自然ワークショップ&セミナー
昨年初めて占冠で開催された近自然ワークショップが,何と今年も開催されることになった。平日の開催,かつかなり真面目な内容で,どんな人が参加するのだろうという興味もあって,有休を取って1日目だけ参加してみた。詳細は鵡川源流を訪ねてに書いた。主催は村内の各種団体からなる「しむかっぷふるさとふっつくつくらむ協議会(ふふふ協議会)」で,ポスト島サミットの動きの一つと見ることもできる。私自身大変勉強になり,仕事にも生かすことのできる内容だった。
○10月1日(木)
・近自然ワークショップ-1 「鵡川源流の森を歩く」 10時〜12時00分
・近自然ワークショップ-2 「鵡川源流部の環境と資源」 13時00分〜16時00分
・近自然セミナー「近自然学と河川再生の可能性」 18時〜19時30分
・報告「15歳が見た近自然とスイス」 19時30分〜20時
・地域素材のお料理で交流会 20時30分〜22時
○10月2日(金)
・近自然ワークショップ-3 鵡川の河口を訪ねて
8時00分〜10時30分 「中流部の環境と壊れた堰堤や頭首工」
10時30分〜12時30分 「河口のまちむかわ町の漁業」
12時30分〜13時30分 この季節だけの贅沢「ししゃも寿司」を味わう
●2009.10.4 泥流
仙台の大叔母のところへは,その後8月にも訪ね,今度は大叔母が5年ぶりに里帰りすることとなった。この日は,父とともに上富良野のゆかりの地へ大叔母を案内した。大正15年の十勝岳噴火まで住んでいた家の跡も訪ね,泥流がどちらからやってきて,そのとき一家がどのようにして逃げたかなど,生々しい話を聞くことができた。大正時代の話を当事者から聞くということは,この先まずないであろう。
この畑を斜めに突っ切り,いまステラが建っている辺りの丘に避難したという。
こうして過去の記憶は,私の中に蓄積されていくが,今度はそれをどうしていけばよいのか。これは非常に難しい問題である。