ニニウと私 2010年
このところ,物事の移り変わりが激しく,1年前のことでも思い出すのが難しいことがある。それだけにそのときどんなことを考えていたのか,ごく私的なことでも書き留めておきたいと思って毎年このページを作っている。(2011年9月17日記す)
●旧友を訪ねる
1月10日,バスを乗り継ぎM氏を訪ねた |
大学を出て勤めた職業は,いわゆる転勤族だった。釧路に4年,札幌に3年,そして旭川での生活はまもなく2年を迎えようとしている。しかし,もし予定どおり事が運べば,同じ職場にいながらにして,この4月から転勤族ではなくなるはずである。同じ職場であっても,一生勤めることになるかもしれないという覚悟を持つのとそうでないのとでは全然違う。これから向かうべきところは何なのか,そんなことを考えざるを得なかった。何かの拠り所がほしかった私は,この時期,古い友人を訪ねて回った。
1月10日,中富良野出身で,高校,大学,そして就職した職場も同じだったM氏を士別市に久々に訪ねた。1月28日には,上富良野出身で,小学から高校までと職場の初任地が同じだったY氏,それに釧路での就職同期会会長のO氏,2人ともいま旭川にいるので仕事後にまちなかで会って飲んだ。2月26日は,大学時代の友人でニニウにも一緒に何度か行ったれんがもち氏と札幌で会食した。3月2日には,中富良野出身で大学が同じだったA氏と会食した。A氏もはじめは転勤のある職場だったが,いまは旭川で転勤のない職を得ている。
大学の同窓はほとんど道内に残っていないが,地縁でつながった友人たちはどういうわけか道内に残り,各地で活躍しているのは心強いことである。それにしても,みな既に家庭を持っており,学生時代にはライバルでもあった彼らに,人生というレースにおいてはかなり先を行かれてしまった気がした。
●2010.2.7 占冠村にて新年会
この日,山菜市や鬼峠フォーラムに関わっているメンバーが参加しての新年会が開かれた。ここからの経緯は,鬼峠フォーラム2010開催報告に詳しく書いた。
いつも飛び切りの鹿肉を提供していただいている高橋勝美さんが,昨年12月から湯の沢温泉で働いているということで,湯の沢温泉の大広間での宴となり,久々に湯の沢を訪れた。会には村の観光協会に新しく加わった方々も参加しており,何かまた新しいことを画策しているようだった。訪れるたびに何かが変わっているというのが,占冠村の魅力だ。
●2010.3.13-14 鬼峠フォーラム2010開催
今年は事前にしっかりとした打ち合わせの機会を持てたことで,例年以上に充実したフォーラムになった。初回の鬼峠フォーラムで少女時代に鬼峠を越えたという女性2人と,およそ50年ぶりに峠を越えたのも感動的だったが,今回,会田さん,長谷川さんという仕事で鬼峠を使った人たちと越えたのは,また別の重みがあった。
そして思いがけないビックゲスト,元新入小学校教員の小山先生の登場。2日目に貫通が間近に迫った占冠トンネルの工事現場を見学できたのも意味あることだったと思う。
そしてまた,この鬼峠フォーラムが,私にとっては思いがけない転機となった。
●2010.3.20 上富良野にて送別会
鬼峠フォーラムの後,Y記者から,昨年転勤したK記者が上富良野に来るので宴会をやるから来ないかと誘われた。K記者は,ある件によって私とニニウの関わりを一段と深めてくれた人であった。
会にはよく事情がわからずに参加したのであるが,名目は,町立病院の先生の送別会ということであった。集まったメンバーは,先生の患者の有志,町立病院の次長さんとその職場仲間であった。
持ち寄りの鍋による一次会がお開きになったあと,黒塗りのハイヤーを3台呼んで,銀座通りに繰り出した。こういう飲み方ができる郷土を誇らしく思った。会は,二次会,そして三次会まで続き,明け方まで飲んだ。私は中学を出ると同時に上富良野を追放された身であり,これまで上富良野に帰っても家族以外に会う人などなかっただけに,初めて上富良野の人たちと宴をともにすることができたことは本当に感動だった。
●2010.4.3 イマイカツミさんの新居お披露目会
この日,富良野市の城宝種苗園に種を買いに行ったのだが,Y記者からぜひ連れて行きたいところがあると言われて向かったのが,画家のイマイカツミさんの新居お披露目会だった。イマイさんは,2001年に富良野へ移住,農作業ヘルパーをしながら絵を描き,寿郎社から夕張や富良野の画集を出版している。このたび,北大沼の農家跡に住まわれることになり,納屋でお披露目会が開かれた。
会にはそうそうたるメンバーが参加していた。寿郎社の土肥社長をはじめ,道内で活躍しているキャスター,編集者,ジャーナリストの方々,市内からは野良窯さん,市役所の有志の方々など。富良野市も,母の実家があるくらいで,そんなに知っている人もいなかったが,上富良野の会に続いて,またぐっと世界が広がったような気がした。
寿郎社の出版物が販売されていたので,いままで買う機会を逃してきた『風間健介写真集:夕張』を購入した。風間さんには以前懇意にしていただいていて,何も恩返しができないまま夕張を離れてしまわれたが,社長さんから直接購入できたのは良かった
イマイさんとは,その後も何度かお会いし,いろいろ勉強させていただいている。
●2010.4.11 第3回伝承堅雪フットパス
かつて旭川と十勝を結んだアイヌ道であり,松浦武四郎も歩いたという山越えの道をスノーシューでたどろうというイベントが,毎年この時期,上富良野で開かれている。歴史の道をたどるという趣旨は,鬼峠越えにも通じるものがあり,一度参加してみたいと思っていた。昨年,上富良野で開催された全道フットパスの集いで,主催者の山谷さんにお会いしたとき連絡先をお伝えしたところ,開催案内を送っていただいたので,今年初めて参加できた。
普段立ち入りが一切できない,自衛隊の演習場の中を歩けたのは貴重だった。演習場だけに森は長年人の手が入っておらず,キノコや山菜採りに入る人もいないため,極めて自然度の高い林相を見ることができた。演習場を抜けると,ベベルイ川の支流,カラ川の急な谷にさしかかかった。登るにつれて本格的な冬景色となり,標高1350メートル,上富良野と富良野の市町界付近で折り返しとなった。
こんな険しい道が,アイヌの人たちの交通路だったのかと不思議に思ったが,たしかに距離的には十勝に至る最短ルートであり,堅雪の時期であれば比較的容易に歩くことができたと思われる。
ただ,このイベントは,正直言って消化不良であった。黙々と登って同じ道を折り返しただけで,体力づくりや達成感を得るためだけの登山以上のものではなかったように感じた。
このイベントで出会った人の何人かとは,翌年の鬼峠フォーラムで再会することとなった。
演習場の防火帯を歩く | 巨木の茂る急斜面を登る | 森林限界を抜けた |
●2010.4.25 道新の購読を開始する
実はこれまで自分で新聞をとって読んだことはなかった。下宿や寮にいたところは共同で購読していたので自分でとる必要はあまりなかったし,ここ数年は仕事帰りにコンビニで購入して読んでいた。
北海道新聞に別に恨みはないが,一つ残念なのは,地方版が細かすぎて,購読している地域以外の情報が極めて少ないということがあった。その点では,むしろ読売新聞や毎日新聞のほうが地域情報が充実しているケースがあり,北海道新聞の購読をためらっていたのである。
ただ,旭川はコンビニで新聞を片づける時間が早く,買い逃しが多くなったこともあり,ついに購読を決断した。ただ私が読みたかったのは富良野版であったが,旭川に住んでいる以上,旭川版しか購読することができないのは残念でならなかった。
●2010.4.26 北海道のこれから
この4月に新生なった職場では,これからの我々の目指すべき方向性について,プロジェクトチームが組まれて,まったくフリーなところから議論を始めた。その第1回目のワーキングがこの日開かれ,以後,連日のように勉強会を重ねていった。
新興住宅地の一戸建てに住む,サラリーマンの4人世帯。いまや幻想とも言えるこのような家族像が,これまで我々が取り組んできたことのすべてのベースにあったと思うが,議論はそこから多様性の方向へと向かい,昭和30年代に終焉を迎えた生活改善運動以降,ほとんど置き去りにされてきた農村の暮らしが,新たな関心事となった。
一極集中,グローバル化という既定路線の中で,地方,地方と言うのは自分だけというような疎外感をこれまで感じてきたが,話し合ってみれば,この疲弊する北海道の中で地方をどうしていくかということが皆の共通認識であることを知ったのは新鮮な驚きだった。時代もまた,そういう方向に大きく変わってきているようである。
そうした議論の中で,これまで占冠の取り組みを通じて学んだこと,今年の冬に旧友を訪ねて回ったことなどが直接的に役に立った。以前の職場では,仕事に余計な知識は不要と言われ,新聞や本を読むにも隠れて読まなければならないような雰囲気もあったが,仕事外で得た知識や教養が仕事で役に立ったのはこのときが初めてのことであった。
●2010.5.4 富良野塾見学会
北海道には3つの廃屋がある……海辺に残された番屋の廃屋,原野に残された農村の廃屋,山に残された炭鉱の廃屋,というのは倉本聰先生がよくおっしゃることである。「北の国から」は廃屋から始まったドラマであるが,「鬼峠」というドラマもまた同じコンセプトで作られたと聞いている。考えてみれば,石勝線の開通によって幹線から外された富良野を舞台にしたドラマが「北の国から」であり,一方で石勝線の開通によって翻弄される占冠をテーマにしたのが「鬼峠」であって,2つのドラマは兄弟のようなものである。
富良野塾は,布礼別川の谷あいにあった離農跡地に,昭和59年に創立された倉本先生の私塾である。この4月で26年の歴史に幕を下ろした。これまで基本的に外部の人間が立ち入ることはできなかったが,この日に行われた見学会では,塾生が去ってがらんどうになった建物をすべて見学させてもらうことができた。
富良野塾とは直接的な関わりはなかったが,これまでの26年の歩みというのは,私が物心ついてからの時代の歩みに重なっており,一つの時代が終わったような寂しさを感じた。
●2010.5.16 フラノ・マルシェにて
富良野市の協会病院跡地に建設されたフラノ・マルシェが4月22日にオープンした。フラノ・マルシェを運営するふらのまちづくり会社の西本社長は母のいとこにあたるが,この日両親とマルシェを訪ね,西本社長からしばしお話しを聞くことができたのは貴重なことだった。
マルシェのオープンによって,個人的に一つだけ残念なことがあった。マルシェのオープンと同時に,富良野商工会議所の1階にあった富良野物産センターが閉鎖されたのであるが,そこの情報コーナーに道新富良野地方版のスクラップコーナーがあって,上富良野から占冠に至るまで,富良野沿線の地域情報を要領よく知ることができた。私も時折そこで情報を仕入れていたのであるが,このコーナーがなくなると,富良野市立図書館で原紙を閲覧するくらいしか方法がなくなる。些細なことではあるが,私にとっては富良野が少し遠い存在になってしまう出来事であった。
マルシェ内の物産センター | 旧物産センターにあったスクラップブック |
●2010.5.23 「三浦綾子記念文学館」巡回展 小説『泥流地帯』はこうして生まれた
小説『泥流地帯』とニニウとの関わりはこれまで再三書いてきた。大正15年5月24日の噴火から84年を迎えようとしていたこの日,上富良野の公民館で開催中の「三浦綾子記念文学館」巡回展を見学した。
展示資料の中に,「三浦綾子さんを囲む会座談会速記録」という冊子があった。座談会は昭和52年7月16日に行われており,北海道新聞の連載小説として執筆されていた『泥流地帯』の正編が昭和51年9月12日に完結した後,続編の執筆が内々で検討されている中で開催されたもので,非常に興味深い内容だった。
●2010.5.27 占冠トンネル貫通式
3月の鬼峠フォーラムで見学させていただいた占冠トンネルが,この日貫通式を迎えた。見学の時にNEXCOの工事長さんが,これまで工事に関わった作業員達を集めて御祝いをやりたいと話していたが,貫通式には工事関係者ら150人が参加,貫通ポイントで渡り初めを行った後,2基の樽みこしが練り歩いたという。その模様は道新の全道版で紹介された。
●2010.5.30 しむかっぷ村民「山菜市」
日月社の山本さんやマルシェひまわりの観音さんを中心とする有志による,新しい占冠のイベントの先がけがこの山菜市である。第1回の鬼峠フォーラムが開催される前年の2006年に初めて開催され,今年で5回目となる。
このイベント,せっかくなら山菜を採りに行くところから参加した方がよいと言われて,結果的にいままで参加したことがなかったのだが,今年初めて顔だけ出してみた。どのコーナーも遊び心があって,出店している人たちはとても楽しそうだった。
ワイルド山菜天ぷら | いろいろな種類の山菜 | 蝦夷鹿ソフトジャーキー |
しむかっぷ村山菜カレー | まあらあのくばんさんのパンコーナー | 今年の目玉企画「蛇喰い仙人のおたまじゃくしすくい」 |
村の人たちが意外と少ないと思ったが,中学校で運動会が行われているという。そこで中学校に行ってみると,村の古い人たちがたくさんおり,そこにはまた山菜市とは全然別の占冠があるように見えた。人口1000人あまりの小さな村とて,占冠は一つではなく,いくつもの占冠が存在するのである。
山菜市は早めに引き上げて,占冠駅に戻った。駅の待合室で,ある方と会い,しばらく話をした。その方の意見としては,山菜市は外からやって来た人たちだけでやっている印象を持っているとのことであった。そして,占冠に元からあるものを,もっと外に対してアピールしていきたいとのことであった。私にも力を貸してほしいと言われ,非常に感じ入るところがあった。
3月の鬼峠フォーラム以来,この5月にかけて,ここに書いていないことも含めて,いろいろな出会いがあった。各地で活躍している人たちと知り合いになり,世界がぐっと広がったような気がした。
しかし,この占冠駅での出来事がまた,一つの転機になったように思う。私はやはり,新聞や雑誌に取り上げられるような人たちを追いかけるのではなく,地道に土地に生きている人たちから,いろいろなことを学ばせてもらいたいと思っている。
●2010.6.28 高速道路無料化社会実験開始
2009年の衆議院議員選挙において,高速道路無料化を公約に掲げた民主党が圧勝し,6月28日から道東道は全線が無料化されることになった。昨年10月24日の占冠IC供用開始後も,依然として日勝峠を経由する車は少なくなかったが,無料化後はほとんどの車が占冠以東,道東道を利用する流れとなった。この急に決まった無料化社会実験は地元町村に混乱をもたらし,日高町の道の駅や飲食店の利用者が激減した一方,占冠では駐車場や自販機の飲み物が足りず,利用者から苦情が出る事態となった。
●2010.8.28 メノビレッジにて
8月27日に大学の研究室の先代の先生である荒谷先生の喜寿をお祝いする会があり,この日は先生が携わられている長沼町のメノビレッジの見学会に参加した。荒谷先生は私が大学2年の時に定年を迎えられたので,直接論文の指導など受けたことはないが,大学時代を通じて最も思想的に影響を受けた先生である。
メノビレッジは学生の時以来,たしか11年ぶりでの訪問で,そのとき断熱材を張らせてもらった貯蔵庫もそのまま残っていて懐かしかった。
●2010.10.5 日本経済新聞札幌新聞40周年シンポジウム「ほっかいどうにできること」
今年,日経新聞の札幌印刷が始まって40周年を迎えるということで,「ほっかいどうにできること」というテーマで懸賞論文の募集があった。はじめ案内があった時には,一丁書いてみようかと思ったのだが,「自らの体験や現場の調査を踏まえ,データに裏打ちされた実現性の高い案を」とあったので,これは無理だとあきらめた。
ところがしばらくして上司から,いまうちの職場でやろうとしているテーマで書いてみないかと打診があった。もともと書こうかとも思っていたので,すんなりと引き受けたが,それから締め切りまでの2カ月弱,まったく筆が進まない苦悩の日々が続いた。いま,具体的なデータに裏打ちされた「ほっかいどうにできること」なんてあるだろうか。道内の経済学者が書いた本なども読みあさってみたが,どれもたいしたことは書いていなかった。
結局最後には,素直に書けば良いのだと観念し,締め切り直前の日曜日ほとんど1日で8000字の原稿を書き上げた。切り出しは愛・地球博の話からはじめ,最後は占冠村の取り組みで結んだ。
10月5日,表彰式を兼ねたシンポジウムが札幌で開催された。私の論文は選外だったが,入選者はどんなテーマで論文を書いたのか興味があって参加してみた。入賞者の論文は「医療・看護・介護」「外国人」「畜産」などをテーマにしたものであった。
私は今まで将来を悲観し,嘆くばかりの人間であったように思うが,この懸賞論文を書くという作業を通じて,自ら取り組むことの大事さを理解したように思う。何もしないから悲観してしまうのであって,とにかく前に進んでいればいいのだということに,いまさらようやく気づいたわけである。
●2010.10.9-10 近自然セミナー&ワークショップinしむかっぷ・むかわ
占冠での開催は今年で3回目となる近自然セミナーが開催され,3年連続で今年も参加した。詳細は旅行記鵡川を下ってに書いた。
●2010.12.11 「スローフードの目指す未来」シネマ+トークセッション
この日,北大の学術交流会館で映画「テッラ・マードレ」の上映会が開催されたので参加した。「テッラ・マードレ」とは,イタリア語で「母なる大地」という意味で,スローフード運動発祥の地イタリアで2年に一度行われている国際会議である。
スローフードというのも,もう10年近く前から言葉だけは聞いていたが,単なる食へのこだわりという程度にしか理解しておらず,私には関係のないものだと思っていた。しかし,近自然セミナーなどを通じて,スローフードのメンバーと関わりを持つ中で,スローフードは単に食の問題のみならず,地域の問題だということが理解されてきた。北海道スローフード・フレンズ帯広の事務局長(当時)でもある山本さんが以前,「山菜市よりも鬼峠フォーラムのほうがもっとスローフードだ」とおっしゃっていたのも,はじめはピンと来ていなかったが,最近になってようやく意味がじわじわとわかりかけてきた。
映画「テッラ・マードレ」も不思議と感じ入るものがあり,この日の鑑賞がその後,私自身スローフードのメンバーになるきっかけとなった。
上映後のトークセッションでは,パネラーとしてメノビレッジのエップ・レイモンドさん,明子さんが参加されていた。大学の先生の縁で8月にメノビレッジを訪ねていたが,意外なところでつながりがあるものだと思った。