バスターミナルの建物は立派だが,乗り場は公道沿いに3つあるだけのあっけないものだった。ターミナルの建設が鉄道廃止後6年もたってからだったことからしても,いろいろな事情があったのだろう。
名寄を出てから3本目のバスで,旧名寄本線の終点,遠軽に向かう。
バスは紋別観光の核であるオホーツクタワーには寄らずに国道に出て,藻鼈川の手前で右折し元紋別市街に入った。この交差点を曲がったところに元紋別駅があったが,いまは駅跡を道道が貫き,鴻之舞金山跡,金八峠を経て石北本線丸瀬布に通じている。
国道に出ると,そこはもう広大なオホーツク流氷公園の一角で,バスは公園の中核施設である「あおぞら交流館」に立ち寄った。
その後,紋別空港が右手にあったはずだが,気付かないうちに通り過ぎた。
紋別空港を過ぎたところでバスは右折し,廃線跡と交差して,旧国道に入った。小向7線,八十士,原生花園,小向11線と4つの停留所を通過していった。見渡す限り人家はなく,名寄本線も現在の国道沿いを走っていたのに,わざわざ遠回りするほどのことはあるのかと思ったが,今年の冬にこの地方で起こった悲惨な事故を思うと,少しでも人家に近いところにバス停を置く必要があるのだろう。
八十士とは何か歴史ある知名に思われたが,アイヌ語のヤッシュウシ(網場の意)に由来するものだった。近くには名寄本線の一本松仮乗降場があったはずだ。
再び廃線跡と交差し,小向市街地の手前で国道に合流した。
左手には茫洋としたコムケ湖が続いた。東西約4kmに細長く続く汽水湖である。
湧別町に入ると牧歌的風景となった。比較的密に酪農家が続いており,根釧台地の大規模酪農とはまた違った風景である。実態は知らないが,このくらいのお隣さんが見える規模で酪農をやっていけるなら,これはこれで一つの豊かさなのではないだろうか。
湧別はサイロの町とも言われているそうである。沿道には印象的なサイロを持つ酪農家が点々と続いた。現在こうしたサイロはほとんど使われることがなくなっている。
名寄本線は中湧別〜湧別間が支線になっていたが,バスは湧別市街を経由する。湧別川の手前の西3線で海側に曲がった。
ときおり裸の土が見えているところがあった。白くごわごわとした土はいままで見たことのないものだった。この土でどんな作物が作れるのだろう。
湧別川を渡る。この上流に,遠軽,丸瀬布,白滝がある。
市街地の中をジグザグに走って,湧別に着いた。
ここで,進行方向を南南西に変え,遠軽に向かってしばらく直進する。
湧別市街。旧湧別町の役場所在地だったが,2009年に上湧別町と合併してできた新生湧別町では,役場を旧上湧別町に譲っている。
名寄本線の湧別支線には,途中に四号線という仮乗降場が存在していた。仮乗降場というのは国鉄時代に,正式な駅としてではなく各地の鉄道管理局の判断で設けられた乗降場であるが,その中でも四号線は最もよく知られていたのではないだろうか。この四号線も,他の仮乗降場と同様,JRへの移行とともに駅に昇格し,最後は正式な駅として廃止を迎えている。
中湧別市街を通過。役場所在地ではないが,新生湧別町の実質的な中心市街地である。
バスは市街の真ん中で左折した。ここはいかにも駅前通りといった風情が残っている。
中湧別駅のホームがそのまま保存されていた。この駅からは名寄本線の湧別支線のほか,湧網線が分岐していた。湧網線の転換バスは2010年で廃止されており,現在,全線をバスでたどることはできなくなっている。
国道に戻り,チューリップ公園を通過。今年は春が遅く,チューリップはまだ最盛期を迎えていない。それでも多くの観光客で賑わっていた。
貫禄ある上湧別市街。さすが屯田兵が開拓した町である。
この辺は,気候も温暖なようで,庭の桜や水仙が満開だった。
都会的な遠軽市街に入った。
定刻より5分早く遠軽到着。バスは遠軽駅には乗り入れせず,バスターミナル横の降車専用レーンに停まった。